R8.9.27 第四主日オープンチャーチ伝道礼拝式説教

メッセージ

題: 「あなたは死なない」
聖書の箇所 「士師記6章11~24節」(旧436頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会では、天地を作られた神様を皆様にご紹介していますが、「神」と聞いて全ての人が歓迎する気持ちになる訳ではありません。これまでの人生で何の関わりも無かった存在が、いきなり「神」を名乗って人生に上がり込んでくると思えば、それは無理もないことでしょう。しかし、「神」に対して面と向かって文句を言うのも、少し恐ろしく思われます。実際、「神」に面と向かった時、私たちはどうなってしまうのでしょうか。

ギデオンは、「天地を造られた神」を知識として知っているだけの普通の人でした。そんなところにいきなり御使いが現れて「勇士として戦え」と言い出したので、彼は強く反発します。いくら自身を助ける為と言われたところで、「これまで守ってくれなかった癖に」、「私の事情など何も知らない癖に」、「そもそも本当にお前は神なのか?」と、様々な文句や疑いが彼にはありました。これまで助けられた覚えがなく、故に「神」の顔も知らなかったからです。この思いは、現代の私たちも共感できる感情ではないでしょうか。これまで神の助けなど借りず自力で生きてきたと思っていたのに、いきなり「私が神だ」と言われても困るでしょう。

しかし、実際のところ、神様はギデオンにも、私達にも、母親のお腹の中に居る時から関わっておられ、今日まで生き延びられるように、あらゆる人生の場面で介入してこられました。しかし、神様はそんなことを、恩着せがましく、また言い訳するように説明される方ではありません。その証拠に神様は、ギデオンにも真正面から向き合い、彼が文句を言い尽くして納得するまで、とことん付き合われたのです。

そもそも、私たちは何故文句を言うのでしょうか。理由は様々でしょうが、その多くは、根元までたどれば「関係を続けるつもりがあるから」だと思います。ギデオンが文句を言い尽くし、疑い尽くしたのも、心の底では神様との関係を続けるつもりだったからです。だから神様も、気が済んだ後、逆に自分の行いが恐ろしくなったギデオンに、「あなたは死なない」とはっきり言われ、御自分との「喧嘩」についての全てをお赦しになられました。例え文句を言い、疑い尽くしたのだとしても、それが御自分との関係の為に出ているのであるなら、神様はいつも「望むところである」と応答してくださいます。その過程で私たちが行う全ての罪も、既にご自分の御子を十字架にかけることで、清算してくださっているのです。

だからこそ私たちもまた、この神様と真正面から向き合うべきです。いつでも神様は、私たちの「全力」に応答してくださるからです。

R8.9.20 第三主日礼拝式説教

メッセージ

題: 「寄り添いの人」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章36~40節」(新112頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

先日、風邪の後に咳が長く残る時期があったのですが、家族から「病院に行った方が良い」と言われながらも、忙しさなどが相まって、結局診察を受けず仕舞いになってしまいました。いつも家族に対して、「体の不調が見られるなら大事をとって病院に言った方が良い」と言っているのに、自分にはそれを適用しない自己矛盾を思わされます。自分の口から出る「優しい言葉」は、どうにも自分では受け入れがたいものです。それは、私たちの心の耳が年齢に関係なくとても鈍いので、聞こえる形以外では中々言葉が届かないからです。

預言者のアンナと言う女性は、愛する夫に先立たれた人でした。再婚してやり直す道も選ばず、昼夜問わずひたすら祈りと断食のみを繰り返す有様は、まるで時が止まっているかのようです。愛する人の喪失によって、人生の時間が止まってしまう人は決して珍しくありません。当時、そのような人が唯一希望を見出せるのは、ダニエル書12章の復活の約束だけでした。そこでは「いのちの書に名前の記された人は、終わりの日に蘇る」とはっきり約束されているからです。しかし、その書に誰の名前が載るのかは、依然不明なままでした。故に、復活に望みを掛けるのであれば、当時の人はそれに名が記されても可笑しくない自分になる為、敬虔であることを必死に目指すしかなかったのです。
「神様に見捨てられない為に必死に敬虔で在り続ける人生」が、壮絶なものであることに疑いの余地はありません。アンナも、そのように人生を歩いてきたのだと思われます。しかし、「神様に見捨てられない為の敬虔さ」は、本当に彼女に必要なものだったのでしょうか。「決してはそうではない」ことを、アンナはイエス様と出会うことで悟ります。「御子を態々連れてこられるような方が、私を見捨てることなどありえない」と確信し、神様の顔を見上げ、断食と祈りの生活を感謝と賛美に変えて、人々にエルサレムの贖いを語り始めたのです。

アンナは預言者ですから、「神様は決してあなたを見捨てない」という類の預言や励ましを、何度も取り次いだことがあったはずです。しかし、それは、彼女を慰める言葉にはなりませんでした。アンナもまた、自分の口から出る慰めを自分に聞こえる形の御言葉として取り扱えなかったのです。神様は、そのような彼女に寄り添われ、救い主を連れてくるという方法で語り掛けられました。「私は今あなたに話している」と、鈍い心でもはっきり判る距離で、顔と顔を合わせて語られたのです。このように、神様はいつでも、私たちの顔を見て間近で話かけて下さいます。だからこそ、私たちもまた、鈍いなら鈍いなりに、心を向けて神様の声を聞こうとしなければなりません。そのように耳を傾けようと決断し続ける中で、私たちも少しずつ「神に寄り添う人」となっていくのです。

R8.9.13 第二主日礼拝式説教

メッセージ

題: 「正しい言葉」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章21~35節」(新111頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

先日の豪雨の際、食事中に知り合いへ連絡をとっていたところ、娘から「食事中に端末をいじってはいけない」と指摘されました。全く正しい指摘で、食事中に行うべきではなかったと大いに反省しました。「正論」という言葉は、近年、あまり良い意味で使われないように思われます。しかし、正しいことを正しく述べるのが悪いことであろうはずがありません。寧ろ、それが正しく用いられる時、私たちの心は大いに慰められるのではないでしょうか。

イエス様が出生された夜の後、羊飼い達の報せを聞いてもベツレヘムの人々はその態度を改めなかったようです。マリアとヨセフは、相変わらず彼らからの支援を受けることができず、過酷な状況を過ごしました。誰からも注目されずにイエス様の命名を行い、エルサレム神殿へ儀式に出かけた際にも、本来、出産後の儀式に供えるはずの子羊ではなく、貧しい人が代わりに献げる鳩を携えていました。誰かがイエス様の誕生を祝って贈り物をしていたのなら、子羊一匹ぐらい用意出来るはずです。しかしそうではないのですから、イエス様の誕生が誰からも祝われなかったことが判るのです。
救い主である前に、両親にとってイエス様は初めて生まれた我が子です。このように、周囲の人々からイエス様が無視されることは、二人の心を痛めるのに十分なものでした。それにいち早く気づいたのは、二人の所へ聖霊に導かれてやってきたシメオンです。彼は、救い主を抱いて、安らかにこの世を去れると神様に感謝しましたが、自分の子供が「祝われた」という事実に驚愕している両親の顔を見た時、その心を痛めて場を去れなくなりました。彼は心を痛めながら御子が誰からも祝われないのは「しるし」に定められているからであり、決してその価値がないからではないこと。そして、これからもそれを見る母の心は、剣に刺し貫かれる程痛むが、決して無駄な痛みではないことを語り、神のなさることを誤解をしてはいけないと慰めたのです。

シメオンが話した言葉は苦境を誤魔化さず、寧ろ厳しい現実をそのまま見据えるような、正確な内容でした。しかし、それが、むしろマリアやヨセフの心を慰める働きをします。何故なら、御子には価値があり、御子の為の痛みにも価値があり、それを理解して共に痛む人もいることが、正しく二人へ伝えられたからです。神様は、優しい言葉も、耳に痛い厳しい正論も両方述べられるお方です。しかし、いつも、私たちを傷つけ、無視し、責める為ではなく、寧ろ慰め、励まし、立ち上がらせる為に、細心の配慮の中で語り掛けて下さる方でもあるのです。「正しい言葉」はその内容だけではなく、その用い方が適切であるが故に、「正しい言葉」と呼ばれるのです。神様はいつも言葉を正しく用いられます。それを信じることこそが、私たちの信仰なのです。

R8.9.6 第一主日聖餐礼拝式説教

メッセージ

題: 「しるしの飼い葉桶」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章8~20節」(新110頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

各地で大雨が続き、毎日のように避難警報が告知されています。警報とは、警告を目的とするが故に、テレビ、ラジオ、スマホなど、あらゆる手段をもって告知側が相手に届けようとするものです。勿論聞き逃すこともあるので、必ず全員に届く保証は無いのですが、少なくとも鳴らせば終わりというものではありません。神様が語られる応答や御言葉も同じようなもので、正しく語られたのであとはどうでもよいではないのです。私たちが有限であるからこそ、神様は御言葉が「届く」ことにこだわられます。

イエス様が生まれた夜、マリアは家畜小屋の中でたった一人、産んだ御子を布に巻き、飼い葉桶に寝かせねばならない憂き目にあっていました(7節)。あまりにも悲惨すぎる御子の有様は、少なくともマリアに取って理解に苦しむ状況であったと思われます。まさか、御子を家畜の餌箱に寝かせるのが神の御心だなどとは結論したくもなかったでしょうし、不用意にエリサベツの家に出かけたせいで、一時は夫のヨセフに離縁まで覚悟させてしまった自身の不注意という自責の材料も整っています。神様が沈黙されているかのように見えるからこそ、その静寂は、むしろマリアが自分を責めて心を痛めるのに十分な働きをするものでした。

そのようなマリアに対し、神様は本当に無言だったのでしょうか。決してそうではありません。マリアが息も絶え絶えに飼い葉桶にイエス様を寝かせていたその時、既に神様は天使を通して羊飼い達に「飼い葉桶に眠るみどりご」の存在を報せておられました。尊い御子が飼い葉桶に寝ていることを案じた羊飼い達もまた、急いで行動を開始していたのです。

羊飼い達は、必要ならば御子とマリアを助けることも視野にいれた大勢の応援でもありました。彼らからの報せを聞いた時、マリアは、少なくとも自分が神様から憎まれたり、退けられたりしているのではないと知ることが出来たのです。マリアにとって、出来事を整理して思い巡らすにはそれで十分でした。神様からの応答は、確かに彼女の心に納まったのです。

神様からの応答を把握するのには、当然時間がかかります。しかし神様は、もう話したからそれが届くかどうかはこだわらないと言われる方ではありません。むしろ、語る相手にそれが届き、理解されたどうかに非常にこだわり、それで喜ぶ私たちの姿を見て、御自身も喜ばれる方なのです。その証拠に、飼い葉桶から始まる福音のしるしもまた、私たちの心に正しく届いている筈です。だからこそ、判らない出来事が多く起こる信仰生活の中で、私たちもまた神様を信頼し、「聞く」ことを決してやめてはならないのです。

R8.8.30 京都教区オンライン合同礼拝説教

メッセージ

題「何度でも何度でも何度でも 愛」 大頭眞一師(京都教区長)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

トーラーは律法と訳されています。広義にはユダヤ教における神の教えや伝統的な律法全体を指しますが、狭義には 旧約聖書の最初の五つである「モーセ五書」を指します。狭義のトーラーは出エジプトの後で与えられました。

まず出エジプト、そしてシナイ山(トーラーが与えられ始めた場所)。この順序はたいせつ。イスラエルは、トーラーを守ったから救われたのではありません。何もしていないのに、ただ神さまの恵みによって救われ、それからトーラーを与えられた。ですから「おきて」や「いましめ」を連想させる「律法」よりも「教え」と訳するほうがよいのです。

「救われた神の民が神と共に歩くための教え」です。十戒も十誡と書きたい。「神と共に歩く歩き方を教える十の愛の言葉」です。ですから伝統的にユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を進むトーラーに口づけします。神の愛の言葉、神のラブレターを愛するのです。そこに神の愛を感じ、神の心を聴くために。今日はトーラーから神の心を聴きます。 【私の名を】 驚くべき出エジプトの海割りの救いからわずか一か月。モーセが十誡を授かるために不在の間、イスラエルは早くも金の子牛を偶像礼拝します。 柔和なモーセは怒りを燃え上がらせ、十誡の石板を砕きます。たいせつな神の愛の手紙を砕くというのは異常な怒り。そして金の子牛を火で焼き、水にまき散らし、イスラエルに飲ませます。そして三千人が命を無くす。なんともすさまじい怒りです。

私たちはこういう箇所を読むと「神さま恐ろしい。戒めを守らなければ」と思いがちです。けれども、モーセのこの怒りは、神を愛するゆえの痛みからであることを見逃してはなりません。 イスラエルを愛し、イスラエルを救った神さま。その愛に背を向けるイスラエルの愛のなさにモーセの心は痛みます。神の痛みとモーセの痛みが同期して嘆きがとまらないのです。そしてついにモーセの思いが噴き出します。

「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(32)と。考えてみるとおかしな言葉です。モーセがイスラエルの人びとの罪を負えるわけではありません。またモーセの名がいのちの書から消されるなどありえないことです。それでもモーセは激しくイスラエルをあわれみ、思わずこう言ってしまいました。

理屈の通らぬ愛を叫び、とりなしたのでした。 かつては「自分は口が重い」とかなんとか言って、尻込みしていたモーセです。そのモーセが我を忘れて自分を注ぎ出しています。いま、モーセの心は神さまの心と重なって同じ同期を刻んでいます。あわれみに胸を熱くして。こんなモーセに神さまはすくなからず慰められたのではないか、と私は思うのです。人間が神さまを慰めることができるなんて、とみなさんは思われるでしょうか。私が神さまを慰めるなんて、と。けれども、私たちは神のかたちに造られたおたがい。神の友とさえ呼ばれています。そんな私たちが、どうにもならないことと知りつつも、神さまの心を思って、嘆き、怒り、自分を投げ出すなら、それは神さまの慰めであるにちがいない、とそう思うのです。

【そして、主イエス】 ここで私たちが思い浮かべるのは、もちろん主イエス。神を愛することを忘れたユダヤの指導者たちへの怒り、例えば、宮清め。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、自分を投げ出された十字架の痛み、何よりも父との断絶の痛みを思うのです。その十字架と復活によって、私たちは神の子とされました。もうすでに。神の友に。だから神の心でこの世界をあわれみ、愛の破れをつくろうために自分を投げ出すお互いとされています。

「けれども私はそんな立派ではない」と尻込む私たち。罪の記憶、失敗の悔いが私たちを引き下ろそうとします。痛みの思い出、うずく傷が私たちの愛を妨げます。けれどももう私たちの内に癒しは始まっています。いつも申し上げることですが、神さまの愛の言葉の湯治と仲間との愛し合う実験、リハビリによって。愛し損ねたとしても、もう一度。何度でも、何度でも、何度でも、愛の冒険は続きます。あきらめない神さまの愛ゆえに。