R8.9.20 第三主日礼拝式説教

メッセージ

題: 「寄り添いの人」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章36~40節」(新112頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

先日、風邪の後に咳が長く残る時期があったのですが、家族から「病院に行った方が良い」と言われながらも、忙しさなどが相まって、結局診察を受けず仕舞いになってしまいました。いつも家族に対して、「体の不調が見られるなら大事をとって病院に言った方が良い」と言っているのに、自分にはそれを適用しない自己矛盾を思わされます。自分の口から出る「優しい言葉」は、どうにも自分では受け入れがたいものです。それは、私たちの心の耳が年齢に関係なくとても鈍いので、聞こえる形以外では中々言葉が届かないからです。

預言者のアンナと言う女性は、愛する夫に先立たれた人でした。再婚してやり直す道も選ばず、昼夜問わずひたすら祈りと断食のみを繰り返す有様は、まるで時が止まっているかのようです。愛する人の喪失によって、人生の時間が止まってしまう人は決して珍しくありません。当時、そのような人が唯一希望を見出せるのは、ダニエル書12章の復活の約束だけでした。そこでは「いのちの書に名前の記された人は、終わりの日に蘇る」とはっきり約束されているからです。しかし、その書に誰の名前が載るのかは、依然不明なままでした。故に、復活に望みを掛けるのであれば、当時の人はそれに名が記されても可笑しくない自分になる為、敬虔であることを必死に目指すしかなかったのです。
「神様に見捨てられない為に必死に敬虔で在り続ける人生」が、壮絶なものであることに疑いの余地はありません。アンナも、そのように人生を歩いてきたのだと思われます。しかし、「神様に見捨てられない為の敬虔さ」は、本当に彼女に必要なものだったのでしょうか。「決してはそうではない」ことを、アンナはイエス様と出会うことで悟ります。「御子を態々連れてこられるような方が、私を見捨てることなどありえない」と確信し、神様の顔を見上げ、断食と祈りの生活を感謝と賛美に変えて、人々にエルサレムの贖いを語り始めたのです。

アンナは預言者ですから、「神様は決してあなたを見捨てない」という類の預言や励ましを、何度も取り次いだことがあったはずです。しかし、それは、彼女を慰める言葉にはなりませんでした。アンナもまた、自分の口から出る慰めを自分に聞こえる形の御言葉として取り扱えなかったのです。神様は、そのような彼女に寄り添われ、救い主を連れてくるという方法で語り掛けられました。「私は今あなたに話している」と、鈍い心でもはっきり判る距離で、顔と顔を合わせて語られたのです。このように、神様はいつでも、私たちの顔を見て間近で話かけて下さいます。だからこそ、私たちもまた、鈍いなら鈍いなりに、心を向けて神様の声を聞こうとしなければなりません。そのように耳を傾けようと決断し続ける中で、私たちも少しずつ「神に寄り添う人」となっていくのです。

R8.9.13 第二主日礼拝式説教

メッセージ

題: 「正しい言葉」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章21~35節」(新111頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

先日の豪雨の際、食事中に知り合いへ連絡をとっていたところ、娘から「食事中に端末をいじってはいけない」と指摘されました。全く正しい指摘で、食事中に行うべきではなかったと大いに反省しました。「正論」という言葉は、近年、あまり良い意味で使われないように思われます。しかし、正しいことを正しく述べるのが悪いことであろうはずがありません。寧ろ、それが正しく用いられる時、私たちの心は大いに慰められるのではないでしょうか。

イエス様が出生された夜の後、羊飼い達の報せを聞いてもベツレヘムの人々はその態度を改めなかったようです。マリアとヨセフは、相変わらず彼らからの支援を受けることができず、過酷な状況を過ごしました。誰からも注目されずにイエス様の命名を行い、エルサレム神殿へ儀式に出かけた際にも、本来、出産後の儀式に供えるはずの子羊ではなく、貧しい人が代わりに献げる鳩を携えていました。誰かがイエス様の誕生を祝って贈り物をしていたのなら、子羊一匹ぐらい用意出来るはずです。しかしそうではないのですから、イエス様の誕生が誰からも祝われなかったことが判るのです。
救い主である前に、両親にとってイエス様は初めて生まれた我が子です。このように、周囲の人々からイエス様が無視されることは、二人の心を痛めるのに十分なものでした。それにいち早く気づいたのは、二人の所へ聖霊に導かれてやってきたシメオンです。彼は、救い主を抱いて、安らかにこの世を去れると神様に感謝しましたが、自分の子供が「祝われた」という事実に驚愕している両親の顔を見た時、その心を痛めて場を去れなくなりました。彼は心を痛めながら御子が誰からも祝われないのは「しるし」に定められているからであり、決してその価値がないからではないこと。そして、これからもそれを見る母の心は、剣に刺し貫かれる程痛むが、決して無駄な痛みではないことを語り、神のなさることを誤解をしてはいけないと慰めたのです。

シメオンが話した言葉は苦境を誤魔化さず、寧ろ厳しい現実をそのまま見据えるような、正確な内容でした。しかし、それが、むしろマリアやヨセフの心を慰める働きをします。何故なら、御子には価値があり、御子の為の痛みにも価値があり、それを理解して共に痛む人もいることが、正しく二人へ伝えられたからです。神様は、優しい言葉も、耳に痛い厳しい正論も両方述べられるお方です。しかし、いつも、私たちを傷つけ、無視し、責める為ではなく、寧ろ慰め、励まし、立ち上がらせる為に、細心の配慮の中で語り掛けて下さる方でもあるのです。「正しい言葉」はその内容だけではなく、その用い方が適切であるが故に、「正しい言葉」と呼ばれるのです。神様はいつも言葉を正しく用いられます。それを信じることこそが、私たちの信仰なのです。

R8.9.6 第一主日聖餐礼拝式説教

メッセージ

題: 「しるしの飼い葉桶」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章8~20節」(新110頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

各地で大雨が続き、毎日のように避難警報が告知されています。警報とは、警告を目的とするが故に、テレビ、ラジオ、スマホなど、あらゆる手段をもって告知側が相手に届けようとするものです。勿論聞き逃すこともあるので、必ず全員に届く保証は無いのですが、少なくとも鳴らせば終わりというものではありません。神様が語られる応答や御言葉も同じようなもので、正しく語られたのであとはどうでもよいではないのです。私たちが有限であるからこそ、神様は御言葉が「届く」ことにこだわられます。

イエス様が生まれた夜、マリアは家畜小屋の中でたった一人、産んだ御子を布に巻き、飼い葉桶に寝かせねばならない憂き目にあっていました(7節)。あまりにも悲惨すぎる御子の有様は、少なくともマリアに取って理解に苦しむ状況であったと思われます。まさか、御子を家畜の餌箱に寝かせるのが神の御心だなどとは結論したくもなかったでしょうし、不用意にエリサベツの家に出かけたせいで、一時は夫のヨセフに離縁まで覚悟させてしまった自身の不注意という自責の材料も整っています。神様が沈黙されているかのように見えるからこそ、その静寂は、むしろマリアが自分を責めて心を痛めるのに十分な働きをするものでした。

そのようなマリアに対し、神様は本当に無言だったのでしょうか。決してそうではありません。マリアが息も絶え絶えに飼い葉桶にイエス様を寝かせていたその時、既に神様は天使を通して羊飼い達に「飼い葉桶に眠るみどりご」の存在を報せておられました。尊い御子が飼い葉桶に寝ていることを案じた羊飼い達もまた、急いで行動を開始していたのです。

羊飼い達は、必要ならば御子とマリアを助けることも視野にいれた大勢の応援でもありました。彼らからの報せを聞いた時、マリアは、少なくとも自分が神様から憎まれたり、退けられたりしているのではないと知ることが出来たのです。マリアにとって、出来事を整理して思い巡らすにはそれで十分でした。神様からの応答は、確かに彼女の心に納まったのです。

神様からの応答を把握するのには、当然時間がかかります。しかし神様は、もう話したからそれが届くかどうかはこだわらないと言われる方ではありません。むしろ、語る相手にそれが届き、理解されたどうかに非常にこだわり、それで喜ぶ私たちの姿を見て、御自身も喜ばれる方なのです。その証拠に、飼い葉桶から始まる福音のしるしもまた、私たちの心に正しく届いている筈です。だからこそ、判らない出来事が多く起こる信仰生活の中で、私たちもまた神様を信頼し、「聞く」ことを決してやめてはならないのです。

R8.8.30 京都教区オンライン合同礼拝説教

メッセージ

題「何度でも何度でも何度でも 愛」 大頭眞一師(京都教区長)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

トーラーは律法と訳されています。広義にはユダヤ教における神の教えや伝統的な律法全体を指しますが、狭義には 旧約聖書の最初の五つである「モーセ五書」を指します。狭義のトーラーは出エジプトの後で与えられました。

まず出エジプト、そしてシナイ山(トーラーが与えられ始めた場所)。この順序はたいせつ。イスラエルは、トーラーを守ったから救われたのではありません。何もしていないのに、ただ神さまの恵みによって救われ、それからトーラーを与えられた。ですから「おきて」や「いましめ」を連想させる「律法」よりも「教え」と訳するほうがよいのです。

「救われた神の民が神と共に歩くための教え」です。十戒も十誡と書きたい。「神と共に歩く歩き方を教える十の愛の言葉」です。ですから伝統的にユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を進むトーラーに口づけします。神の愛の言葉、神のラブレターを愛するのです。そこに神の愛を感じ、神の心を聴くために。今日はトーラーから神の心を聴きます。 【私の名を】 驚くべき出エジプトの海割りの救いからわずか一か月。モーセが十誡を授かるために不在の間、イスラエルは早くも金の子牛を偶像礼拝します。 柔和なモーセは怒りを燃え上がらせ、十誡の石板を砕きます。たいせつな神の愛の手紙を砕くというのは異常な怒り。そして金の子牛を火で焼き、水にまき散らし、イスラエルに飲ませます。そして三千人が命を無くす。なんともすさまじい怒りです。

私たちはこういう箇所を読むと「神さま恐ろしい。戒めを守らなければ」と思いがちです。けれども、モーセのこの怒りは、神を愛するゆえの痛みからであることを見逃してはなりません。 イスラエルを愛し、イスラエルを救った神さま。その愛に背を向けるイスラエルの愛のなさにモーセの心は痛みます。神の痛みとモーセの痛みが同期して嘆きがとまらないのです。そしてついにモーセの思いが噴き出します。

「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(32)と。考えてみるとおかしな言葉です。モーセがイスラエルの人びとの罪を負えるわけではありません。またモーセの名がいのちの書から消されるなどありえないことです。それでもモーセは激しくイスラエルをあわれみ、思わずこう言ってしまいました。

理屈の通らぬ愛を叫び、とりなしたのでした。 かつては「自分は口が重い」とかなんとか言って、尻込みしていたモーセです。そのモーセが我を忘れて自分を注ぎ出しています。いま、モーセの心は神さまの心と重なって同じ同期を刻んでいます。あわれみに胸を熱くして。こんなモーセに神さまはすくなからず慰められたのではないか、と私は思うのです。人間が神さまを慰めることができるなんて、とみなさんは思われるでしょうか。私が神さまを慰めるなんて、と。けれども、私たちは神のかたちに造られたおたがい。神の友とさえ呼ばれています。そんな私たちが、どうにもならないことと知りつつも、神さまの心を思って、嘆き、怒り、自分を投げ出すなら、それは神さまの慰めであるにちがいない、とそう思うのです。

【そして、主イエス】 ここで私たちが思い浮かべるのは、もちろん主イエス。神を愛することを忘れたユダヤの指導者たちへの怒り、例えば、宮清め。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、自分を投げ出された十字架の痛み、何よりも父との断絶の痛みを思うのです。その十字架と復活によって、私たちは神の子とされました。もうすでに。神の友に。だから神の心でこの世界をあわれみ、愛の破れをつくろうために自分を投げ出すお互いとされています。

「けれども私はそんな立派ではない」と尻込む私たち。罪の記憶、失敗の悔いが私たちを引き下ろそうとします。痛みの思い出、うずく傷が私たちの愛を妨げます。けれどももう私たちの内に癒しは始まっています。いつも申し上げることですが、神さまの愛の言葉の湯治と仲間との愛し合う実験、リハビリによって。愛し損ねたとしても、もう一度。何度でも、何度でも、何度でも、愛の冒険は続きます。あきらめない神さまの愛ゆえに。

R8.8.9 第二主日聖餐礼拝式

題: 「深い憐み」
聖書の箇所 「ルカの福音書1章57~80節」(新109頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。
67 さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。 主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
71 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
75 私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。
76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
80 幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。

メッセージ
1,朝に出勤し、作業台の上にある見慣れない箱を退かそうとしたら、社長の大事な荷物だと判って慌てて手を引っ込めた。みたいなことが仕事の中ではたまに起こります。そうした品とは、なるべく距離を取りたくなるのが人情というものです。今日の箇所でも、ヨハネが特別な子であると判ったとたんに、ザカリヤの親類や近隣の人々は、一斉にヨハネから距離を取ろうとしました。聖別された神様の持ち物に、不用意に触ってはいけないと考えたからです。

2,神様の持ち物に触れることが、大変恐ろしいというのは事実です。だから親類や近隣の人々の反応は当然のことだと思います。しかし、ザカリヤは距離をとった彼らに、賛歌(ベネディクトゥス)を通して、この特別な子ヨハネは、むしろ皆で近づくべきであり、神様もそのように招かれていると証しました。何故なら神様は、ご自身から距離を取って恐れる人々を招く為に、贈り物としてヨハネを聖別されたからです。冒頭に話した「社長の荷物」も、確かにそれだけを聞けば恐ろしいものかもしれません。しかし、それが社長から現場へ差し入れられたケーキだったとしたらどうでしょうか。皆、そうと判れば恐れずに受け取ろうと集まるはずです。何故なら、それは社長が皆の為に用意した贈り物であると、現場の人々が知ったからです。神様が求められることも、それと同じです。贈り物であるからこそ、皆にヨハネに近づいて欲しいと招かれたのです。
神様は、良いものを聖別されます。それを食卓のように整え、私たちを招き、与える為です。神様は、私たちを喜ばせることを通して、ご自分もまた喜びたいと願われる方なのです。その為に必要なら、受肉されたイエス様のように、ご自分から近づいて呼びかけてすら下さいます。神様は、私たちとの「近さ」を喜ばれる方なのです。私たちはそのような神様に招かれ、既に近くに居るのです。

3,神様が私たちとの近さを喜ばれるのは、深い憐みの故です。その近さとは、私たちの日常生活の中でも常に感じることの出来る近さです。仕事机の傍らに、寝室に、台所に、居間のソファの上に、常に神様は居られて、私たちとの生活を喜んでくださいます。このような神様に対し、私たちは今日、語り掛けるべきなのです。