題: 「マリアの賛歌」
聖書の箇所 「ルカの福音書1章46~56節」(新108頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
46 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、
47 私の霊は私の救い主である神をたたえます。
48 この卑しいはしために目を留めてくださったからです。 ご覧ください。今から後、どの時代の人々も 私を幸いな者と呼ぶでしょう。
49 力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。その御名は聖なるもの、
50 主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。
51 主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
52 権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。
54 主はあわれみを忘れずに、そのしもべイスラエルを助けてくださいました。
55 私たちの父祖たちに語られたとおり、アブラハムとその子孫に対するあわれみをいつまでも忘れずに。」
56 マリアは、三か月ほどエリサベツのもとにとどまって、家に帰った。
1,エリサベツから、自身の胎に子供を授かったことを聞かれたマリアは、神様への溢れる思いを言葉に表して賛美しました。それがマリアの賛歌です。彼女の歌には、神様の憐み深い性質がとてもよく表れています。それだけでも十分なものですが、彼女の賛歌は、福音の光で照らした際に更に輝きを増すものとなるのです。
2,今日の中心聖句で、マリアは「この卑しいはしために」と発言しているのですが、もう少し厳密なニュアンスで翻訳すると、「はしための卑しさ(恥じ入る姿)」という言葉になります。マリアは、「あまりにも恥ずかしくて顔向けが出来ないと落ち込む私の姿を、むしろ神様は目に留めて憐れんで下さった」と喜んでいるのです。マリアにとっての卑しさ(恥)とは、勿論「子供を産んでイエスと名付ける」使命を遂行できない自分の姿そのものです。婚約中の身ですぐには子供が産めない処女という自分の姿を、マリアは「卑しい」と総括したのです。しかし、むしろそれによって「処女懐胎」という大きな御業が与えられたのはマリアにとって幸運でした。至らなさ故に、御業を受けることができたので、彼女は自分を幸運だと証言したのです。
勿論、既に十字架の出来事まで知っている後の時代の私たちは、マリアが御業によって取り除かれたと喜んでいるその処女性すらも、神様のご計画に必要なものであったことを知っています。それを「はしための卑しさ」と祈る彼女の信仰は間違っていませんが、神様は、ただマリアにお情けで処女懐胎させた訳ではありません。マリアは確かに、神様に価値あるものとして用いられたのです。
3,神様は、私たちには及びもつかない深さで物を見られ、全知故の価値基準で全てをご判断されています。神様は、私たちの目には「飢えている」「身分が低い」としか映らない人々の価値すらも、正しく見抜かれて重んじ、時には富める人や高ぶる人よりも優先なさるのです。私たちもまた、各々選ばれて十字架の救いに召されています。そのような私たちにも、神様は建前抜きに、本当に価値を見出された上で、「あなたは高価で尊い」と言ってくださいました。それぞれ違う、各々の高価さを、神様だけが見つけて下さったからです。






