トーラーは律法と訳されています。広義にはユダヤ教における神の教えや伝統的な律法全体を指しますが、狭義には 旧約聖書の最初の五つである「モーセ五書」を指します。狭義のトーラーは出エジプトの後で与えられました。
まず出エジプト、そしてシナイ山(トーラーが与えられ始めた場所)。この順序はたいせつ。イスラエルは、トーラーを守ったから救われたのではありません。何もしていないのに、ただ神さまの恵みによって救われ、それからトーラーを与えられた。ですから「おきて」や「いましめ」を連想させる「律法」よりも「教え」と訳するほうがよいのです。
「救われた神の民が神と共に歩くための教え」です。十戒も十誡と書きたい。「神と共に歩く歩き方を教える十の愛の言葉」です。ですから伝統的にユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を進むトーラーに口づけします。神の愛の言葉、神のラブレターを愛するのです。そこに神の愛を感じ、神の心を聴くために。今日はトーラーから神の心を聴きます。 【私の名を】 驚くべき出エジプトの海割りの救いからわずか一か月。モーセが十誡を授かるために不在の間、イスラエルは早くも金の子牛を偶像礼拝します。 柔和なモーセは怒りを燃え上がらせ、十誡の石板を砕きます。たいせつな神の愛の手紙を砕くというのは異常な怒り。そして金の子牛を火で焼き、水にまき散らし、イスラエルに飲ませます。そして三千人が命を無くす。なんともすさまじい怒りです。
私たちはこういう箇所を読むと「神さま恐ろしい。戒めを守らなければ」と思いがちです。けれども、モーセのこの怒りは、神を愛するゆえの痛みからであることを見逃してはなりません。 イスラエルを愛し、イスラエルを救った神さま。その愛に背を向けるイスラエルの愛のなさにモーセの心は痛みます。神の痛みとモーセの痛みが同期して嘆きがとまらないのです。そしてついにモーセの思いが噴き出します。
「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(32)と。考えてみるとおかしな言葉です。モーセがイスラエルの人びとの罪を負えるわけではありません。またモーセの名がいのちの書から消されるなどありえないことです。それでもモーセは激しくイスラエルをあわれみ、思わずこう言ってしまいました。
理屈の通らぬ愛を叫び、とりなしたのでした。 かつては「自分は口が重い」とかなんとか言って、尻込みしていたモーセです。そのモーセが我を忘れて自分を注ぎ出しています。いま、モーセの心は神さまの心と重なって同じ同期を刻んでいます。あわれみに胸を熱くして。こんなモーセに神さまはすくなからず慰められたのではないか、と私は思うのです。人間が神さまを慰めることができるなんて、とみなさんは思われるでしょうか。私が神さまを慰めるなんて、と。けれども、私たちは神のかたちに造られたおたがい。神の友とさえ呼ばれています。そんな私たちが、どうにもならないことと知りつつも、神さまの心を思って、嘆き、怒り、自分を投げ出すなら、それは神さまの慰めであるにちがいない、とそう思うのです。
【そして、主イエス】 ここで私たちが思い浮かべるのは、もちろん主イエス。神を愛することを忘れたユダヤの指導者たちへの怒り、例えば、宮清め。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、自分を投げ出された十字架の痛み、何よりも父との断絶の痛みを思うのです。その十字架と復活によって、私たちは神の子とされました。もうすでに。神の友に。だから神の心でこの世界をあわれみ、愛の破れをつくろうために自分を投げ出すお互いとされています。
「けれども私はそんな立派ではない」と尻込む私たち。罪の記憶、失敗の悔いが私たちを引き下ろそうとします。痛みの思い出、うずく傷が私たちの愛を妨げます。けれどももう私たちの内に癒しは始まっています。いつも申し上げることですが、神さまの愛の言葉の湯治と仲間との愛し合う実験、リハビリによって。愛し損ねたとしても、もう一度。何度でも、何度でも、何度でも、愛の冒険は続きます。あきらめない神さまの愛ゆえに。





