R8.10.25 第四主日オープンチャーチ伝道礼拝説教

『贖いの儀式』

聖書箇所:ヘブル人への手紙4章16節~5章10節 (新約聖書442頁)

中心聖句:『ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(ヘブル人への手紙4章16節)

2026年10月25日(日) 第四主日オープンチャーチ伝道礼拝説教

私たちはこの世界で、それぞれ自分の力と責任で生きていかねばなりません。それを受け入れるのが「大人になる」ことだと思います。しかし、その一方で、人生に於いて私達が受ける痛みはあまりにも多すぎます。だから、時に痛みを明け渡せる存在を捜してしまうのは仕方ないことなのです。昔はその痛みを友人や親に、現代ではAIに相談するのですが、それで解決してしまう程、私達の痛みは単純ではありません。だからこそ、それを深刻に思う程に、その解決の為に我々は教会を始め様々な門を叩くのです。ところが、私達は門を叩く一方で、門の先にいる相手が、自分の痛みを適切に扱ってくれるかどうかを知りません。教会の「神」に対しても、「初対面だしぞんざいに扱われるのでは」とも思うかもしれません。しかし、今日は一つのことを知って頂きたいと願います。私たちの痛みは、この天地を作られた「神」の激しい情熱の中心で、もう2000年以上も昔から燃え続けているのです。

というのは、元々私たちは天の父なる神と、その独り子である子なる神、即ちキリストによって創造されたと聖書に証されているからです。私達一人びとりも、母のお腹の中に居る時に、このお二人がデザインして造って下さったが故に、各々が自慢の最高傑作として大切にされているのです。しかし、いかんせん心が弱いので、私達は両者の最高傑作であるにも関わらず、生きる中で、痛みに耐えきれなくなってしまいます。その結果、人を傷つけるなど様々な不始末を起こしてしまい、その罰を受けることを迫られるのです。辛さに耐えきれず酒を飲んで人を殴れば、翌日は留置所のお世話になります。辛さは同情されるべきですが、人を殴った不始末の責任は当然取らねばなりません。聖書によれば、そのような「不始末」の代償は永遠の滅びと苦しみであると語られています。生まれてから一度も失敗しない人などいませんから、私達は皆が等しく自分の不始末の責任をとって滅びるのです。それを見て憐れまれるのは、他でもない父なる神でした。父なる神は、私達が受ける罰の身代わりとして、子なる神であるキリストを、十字架につけて死なせることを決められました。キリストも私達を愛して、十字架の上で死ぬ為に人となられ、イエスという名でこの世に生まれて下さったのです。

ところが、人となったキリストは、自ら体験した「痛み」を通して、私たちが痛みに苦しむ姿を思い起こし愕然とされます。病気で苦しむ我が子の苦しみを、正確に体験してしまった親のように、自分の痛みではなく、それに痛む私達の思いを慮って愕然とされたのです。ここで潮目が変わります。それまでは、従順に引き受けるものであった十字架の意味が、キリストの中で決定的に変わってしまいました。キリストは、私達の痛みに苦しむ姿を見て、激しく燃え上がる炎のような「熱」を持たれました。そして涙ながらに祈られ、父なる神に詰め寄るがごとく、御自分の「十字架の死」と引き換えに私たちを救ってくださるように、激しく叫ばれたのです。その叫びの「熱」は、十字架の企画者である父なる神の心をも揺り動かす程でした。父なる神は、元々その予定であったにも関わらず、まるで「彼らの痛みに対する熱が足りなかった」と思い直したかのように手を挙げ、「思い直されることはない。『あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である』」とキリストに誓われました(詩編110篇4節)。つまり、私達の救いにおける権限を、未来永劫、全てキリストに渡してしまわれたのです。神様は、私達をただ憐れんで、十字架による贖い(身代わり)の儀式を行われた訳ではありません。一方的に初対面であると思っている私達の顔を見て、その人生の痛みの一つ一つを知り、その悲痛な叫びへの情熱を燃料として、今現在も激しく、なお一層激しく燃え続けておられるのです。

神様は私達を知らないのでしょうか。とんでもありません。顔を見て「誰だ?」と言われるのでしょうか。全くの思い違いです。もうずっと私達は、私達自身も知らない所で、父なる神とキリストの間で中心的な「課題」であり、「話題」であり、「取り組み」であるとされているのです。だからこそ、私達も今、父なる神とキリスト相手に初対面のように遠慮してはなりません。お二人は揃って、「あなたこそが話題の中心なのだから早くこちらへ来なさい」と顔を見て、暖かな熱意ある声で招き、私達の携えてきた痛みを「その根に至るまで燃やし尽くす」と約束して下さるのです。そのような交わりに今、招かれているのですから、それに応えて私たちも、大胆にそばへと近づこうではありませんか。

R8.10.11 第二主日礼拝説教

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題: 「寄り添いの呼びかけ」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章41~52節」(新約聖書112頁)
中心聖句:『母はこれらのことをみな、心に留めておいた。』(ルカの福音書2章51節)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

イエス様に出会い救われた人にとって、神様から与えられる人生の中での役割はとても大切なものとなります。それは私たちの人生の中で、果たすべき目標になることでしょう。しかし、私たちがそれに熱心であるほど、段々辛くなってしまうのもまた事実です。使命の中で受ける労苦は、私たちの心を段々飢えさせ、乾かしてしまいます。そうなった時、私たちはそれにどう対応できるでしょうか。

心が飢え渇くと、踏み固めた地面になかなか水が入らないように、私たちは本来気づくことが出来る道行の豊かさを見失ってしまいます。今日の箇所で、行方の判らなくなったイエス様を捜していたマリアとヨセフも、あの特別な聖夜から12年の歳月を経て、すっかり心の潤いを失っていたようです。彼らはイエス様から、「父の所に居るべきなのをご存じなかったのですか」と問われた際、その意味を理解できませんでした。むしろ「それが判るなら何故、父(ヨセフ)の前から居なくなったのか」と思ったからです。それを聞けば私たちは、「この二人の心はなんて鈍いのだろう」と思うかもしれません。しかし、それは私たちが聖夜の記事から間を置かずに今日の箇所を読んでいるのでそう思うだけです。過ぎ越しの祭りに夫婦で参加するのは、当時よほど熱心でなければ行わないことですから、彼らは間違いなく自分の召しに敬虔に向き合い続けていたのです。しかし同時に、二人は「救い主を育てる」という使命に集中するあまり、労苦の中で、「俗世で生きる父と母」以外の感覚を摩耗させていました。ダビデの末裔としての覚悟や、ガブリエルの告知に勇敢に応答したあの豊かな信仰がすっかり渇き、固まってしまった結果、イエス様の「父」という言葉が、ヨセフ以外に結びつかなくなっていたのです。

「虐げは知者を狂わせる」と聖書も言うように、長年の抑圧や労苦は私たちの心を乾かします。自らの責務に誠実であるならなおのことでしょう。しかし、それはその人自身が請け負うべき責任でしょうか。少なくとも、私たちを召した神様は、決してそうであるとは言われません。むしろ「義に飢え渇く人は幸いです。何故ならそれは満たされるから」と言われ、私たちが自らの召しの中で失う潤いに介入し、御自らそれを取り戻して下さいます。マリアも恐らく神様から、イエス様の何気ない言葉を通し呼びかけられたことで、理解出来なかった言葉を改めて「思いめぐらせた」のでしょう。自身がただ労苦するだけの「母」ではなく、天の父なる神様とその独り子の豊かな交わりに、一番近い所で奉仕する「母」であることに気づき、その日から、それを分かち合って下さるイエス様の言葉を喜んで心に蓄えるようになったのです。同じように私たちも、その責務や労苦が無くなる訳ではないのですが、神様ご自身が私達の心を耕して、その道行に元々ある豊かな恵みに気づかせて下さいます。だからこそ、私たちは自らの心の渇きを請け負う必要がありません。寧ろそれを神様に委ね、安心して召しに集中すべきなのです。

R8.10.4 丹後地区三教会合同オンライン礼拝式説教

メッセージ

題: 「ノアの息子達」
聖書の箇所 「創世記6章1~7節」(旧12頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

最近はスピリチュアル市場が非常に人気です。2023年時点で4兆円を超える売り上げを見せており、近所の様々な場所でも関連店を見かけるようになりました。スピリチュアルは、「あなたには価値がある」「その人生には意味がある」と、承認欲求を満たす言葉を与えてくれる点で非常に有益なものに思われますが、その反面、その言葉は取り扱う本人達ですら、「当たるも八卦、当たらぬも八卦」、「信じるか信じないかはあなた次第」と、責任をもって引きうけることが出来ない「ふんわりした言葉」でもあります。しかし、我々がそれを指摘すれば、「教会も同じではないか」という批判はまぬがれないでしょう。何故なら我々も、「神はあなたを愛している」「あなたには価値がある」と、似たような「福音」を宣べ伝えているからです。それに根拠を問われるのは当然のことではないでしょうか。

私達は、「神は全ての人を愛している」という言葉を良く用います。それは、伝道の基本である、神、罪、救いの三つを伝える上で必ず言わねばならないことだからです。しかし、「神はありのままで受け入れて下さる」「神に愛されていない人など一人も居ない」「罪の大きさはその好意には無関係だ」と伝道の言葉を進める途上で、私達はどのぐらい「それは本当か?」という問いに対し、確信と責任をもって「そうだ」と返答できるでしょうか。

大前提として、私たちが人々に宣べ伝える福音は、科学的見地に基づいて「証明されている」とは言えない信仰の領域を取り扱うものです。だからこそ「それは本当か?」と問われた際に、「私はそう信じる」とか「そうだと思う」とか、自分の気持ちに基づく「ふんわりとした言葉」では、信用を得るには足りません。少なくとも、「私は二千年の昔から変わらずそこにあり、精査され、受け継がれてきた聖書の言葉に立つ」ぐらいは言えなければならないでしょう。つまり、「神はあなたを愛している」という言葉一つを伝えるのにも、私達はどの御言葉がそれを保証しているのかを知っていなければならないのです。

例えば、先に例を挙げた「神の愛」のご性質は、キリストよりも前からノア契約によって証されていることです。今日開いた箇所で神様は、洪水後の新世界でノアと契約する前に、8章21節で「人間は生まれながらの悪(罪びと)である」という事実をはっきり確認されました。しかし、それでも9章1節で「例え、そうであったとしても、それでも私はあなたを祝福する」と、ノアとその息子達、すなわちノアの子孫全てに対して、はっきり契約されたのです。聖書によれば、この地上で生きている全ての人で、ノアの子孫でない人は一人も居ません。我々が罪びとだと知られた上で神様が祝福された以上、どんな罪を犯し、イエス様を全く知らずに生きているのだとしても、全ての人が「ノアの息子と娘達」であるが故に、「神様から愛されていない人など絶対に居ない」と言い切れるのです。

神様は歴史の中で、私達に明確な証を立てて御自分のご性質を示し、それを聖書に残して下さいました。神様による福音の中に、気休めの言葉など何ひとつないのです。もし、私達がそのような御言葉の一つ一つを心に蓄え、昼も夜も口ずさみ、自らの言葉の土台に据えるのならば、その口が語る福音は「ふわっとした言葉」にはなりません。それどころか、岩の上に建てられた堅牢な要塞の如く、絶対に外側から崩されない確信に満ちたものとなるのです。ここに、御言葉の上に立つという奥義があります。私たち教会は、神様が祝福されたノアの息子や娘達に対して、一人も例外なく福音を宣べ伝える使命を負っています。その為に私達は日ごろ、どのような心持ちで御言葉に向き合い続けているでしょうか。確信と責任を持って堅牢に「諾と否」を語れる自分になると、今決断すべきなのです。

R8.9.27 第四主日オープンチャーチ伝道礼拝式説教

メッセージ

題: 「あなたは死なない」
聖書の箇所 「士師記6章11~24節」(旧436頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

教会では、天地を作られた神様を皆様にご紹介していますが、「神」と聞いて全ての人が歓迎する気持ちになる訳ではありません。これまでの人生で何の関わりも無かった存在が、いきなり「神」を名乗って人生に上がり込んでくると思えば、それは無理もないことでしょう。しかし、「神」に対して面と向かって文句を言うのも、少し恐ろしく思われます。実際、「神」に面と向かった時、私たちはどうなってしまうのでしょうか。

ギデオンは、「天地を造られた神」を知識として知っているだけの普通の人でした。そんなところにいきなり御使いが現れて「勇士として戦え」と言い出したので、彼は強く反発します。いくら自身を助ける為と言われたところで、「これまで守ってくれなかった癖に」、「私の事情など何も知らない癖に」、「そもそも本当にお前は神なのか?」と、様々な文句や疑いが彼にはありました。これまで助けられた覚えがなく、故に「神」の顔も知らなかったからです。この思いは、現代の私たちも共感できる感情ではないでしょうか。これまで神の助けなど借りず自力で生きてきたと思っていたのに、いきなり「私が神だ」と言われても困るでしょう。

しかし、実際のところ、神様はギデオンにも、私達にも、母親のお腹の中に居る時から関わっておられ、今日まで生き延びられるように、あらゆる人生の場面で介入してこられました。しかし、神様はそんなことを、恩着せがましく、また言い訳するように説明される方ではありません。その証拠に神様は、ギデオンにも真正面から向き合い、彼が文句を言い尽くして納得するまで、とことん付き合われたのです。

そもそも、私たちは何故文句を言うのでしょうか。理由は様々でしょうが、その多くは、根元までたどれば「関係を続けるつもりがあるから」だと思います。ギデオンが文句を言い尽くし、疑い尽くしたのも、心の底では神様との関係を続けるつもりだったからです。だから神様も、気が済んだ後、逆に自分の行いが恐ろしくなったギデオンに、「あなたは死なない」とはっきり言われ、御自分との「喧嘩」についての全てをお赦しになられました。例え文句を言い、疑い尽くしたのだとしても、それが御自分との関係の為に出ているのであるなら、神様はいつも「望むところである」と応答してくださいます。その過程で私たちが行う全ての罪も、既にご自分の御子を十字架にかけることで、清算してくださっているのです。

だからこそ私たちもまた、この神様と真正面から向き合うべきです。いつでも神様は、私たちの「全力」に応答してくださるからです。

R8.9.20 第三主日礼拝式説教

メッセージ

題: 「寄り添いの人」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章36~40節」(新112頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

先日、風邪の後に咳が長く残る時期があったのですが、家族から「病院に行った方が良い」と言われながらも、忙しさなどが相まって、結局診察を受けず仕舞いになってしまいました。いつも家族に対して、「体の不調が見られるなら大事をとって病院に言った方が良い」と言っているのに、自分にはそれを適用しない自己矛盾を思わされます。自分の口から出る「優しい言葉」は、どうにも自分では受け入れがたいものです。それは、私たちの心の耳が年齢に関係なくとても鈍いので、聞こえる形以外では中々言葉が届かないからです。

預言者のアンナと言う女性は、愛する夫に先立たれた人でした。再婚してやり直す道も選ばず、昼夜問わずひたすら祈りと断食のみを繰り返す有様は、まるで時が止まっているかのようです。愛する人の喪失によって、人生の時間が止まってしまう人は決して珍しくありません。当時、そのような人が唯一希望を見出せるのは、ダニエル書12章の復活の約束だけでした。そこでは「いのちの書に名前の記された人は、終わりの日に蘇る」とはっきり約束されているからです。しかし、その書に誰の名前が載るのかは、依然不明なままでした。故に、復活に望みを掛けるのであれば、当時の人はそれに名が記されても可笑しくない自分になる為、敬虔であることを必死に目指すしかなかったのです。
「神様に見捨てられない為に必死に敬虔で在り続ける人生」が、壮絶なものであることに疑いの余地はありません。アンナも、そのように人生を歩いてきたのだと思われます。しかし、「神様に見捨てられない為の敬虔さ」は、本当に彼女に必要なものだったのでしょうか。「決してはそうではない」ことを、アンナはイエス様と出会うことで悟ります。「御子を態々連れてこられるような方が、私を見捨てることなどありえない」と確信し、神様の顔を見上げ、断食と祈りの生活を感謝と賛美に変えて、人々にエルサレムの贖いを語り始めたのです。

アンナは預言者ですから、「神様は決してあなたを見捨てない」という類の預言や励ましを、何度も取り次いだことがあったはずです。しかし、それは、彼女を慰める言葉にはなりませんでした。アンナもまた、自分の口から出る慰めを自分に聞こえる形の御言葉として取り扱えなかったのです。神様は、そのような彼女に寄り添われ、救い主を連れてくるという方法で語り掛けられました。「私は今あなたに話している」と、鈍い心でもはっきり判る距離で、顔と顔を合わせて語られたのです。このように、神様はいつでも、私たちの顔を見て間近で話かけて下さいます。だからこそ、私たちもまた、鈍いなら鈍いなりに、心を向けて神様の声を聞こうとしなければなりません。そのように耳を傾けようと決断し続ける中で、私たちも少しずつ「神に寄り添う人」となっていくのです。