R8.10.28 水曜聖書研究祈祷会奨励

『一体、正しさはどこにあるのか』

聖書箇所:創世記12章10節~13章18節
‘26年10月28日 聖書研究祈祷会奨励

アブラムとロトが寄留者として生活していたカナン地方が大きな飢饉に陥り、アブラムは迷わずエジプトに逃げる決断をしました。そして、サライを妹と偽り、ファラオから財産をせしめる流れもありましたが、何とかエジプトから生きて戻ることができたのです。ところが、カナンへ戻ってきたあたりから、何故かロトが余所余所しくなり始めます。財産や家畜、家人をアブラムとは別のものとして扱い、家人の羊飼い同士でいさかいが起こるようになりました。関係修復を望むアブラムは、そのようなロトに「別れて暮らす」という思い切った提案をすることで、驚いた彼と腹を割って話せるかもしれないと対話を試みますが、なんと、ロトはすんなり土地を決めて、ヨルダン川東の低地の地方に向けてあっさり出て行ってしまいます。これまで共に同労者として働いてきたロトの行動に対して、アブラムも流石に驚いて、神様の前でひどく落ち込んでしまいます。一体彼に何があったのでしょうか。

ロトは、「他の民族の人々と仲良くする」ことについてこだわりを持っている人でした。何故そのような考えが彼に起こったのかは定かではありませんが、その行動だけはこれまでも常に一貫していました。ロトは、まずカルデヤのウルに於いて、カナンへ向かおうとするテラに喜んで従いました。カナンの人々相手なら、外国人として上手く付き合えるかもしれないと考えただろうテラの考えに賛同したからです。しかし、ハランでテラはセム族のコミュニティを作り、とどまってしまいます。そのような祖父を、「堕落した」と見なすやいなや、今度は「全ての民族を祝福する」為に出かけるアブラムを支える為に、ロトは潔く祖父とハランを捨てて、カナンに向けて「出発」します。「全ての民と融和する為にカナンへ出発する」という、アブラムに与えられた神様の召命は、ロトの理想そのものが体現しているかのように思われたからです。

しかし、実際にはアブラムはロトの目から見て、とても民族の融和を目指すようには見えませんでした。「祝福すべきはずの飢えたカナンの人々を平気で見捨て」、「出会いもしない人々を悪人と決めつけ」、「エジプトの人々を騙すのにためらいが無く」「あまつさえ追い出されて帰ってきた後も後悔すらしていない」と、エジプトにまつわるアブラムの行動が、ロトの目からはそのように見えたのです。勿論、それはロトの一方的な見解に過ぎなかったと思われます。アブラムはエジプトには、「一時」行くつもりであったとはっきり本文には書かれています。サライにエジプト人の目が集まっている内に、さっさと食料を買い付けてカナンに帰るつもりだったのかもしれません。ファラオにまで目をつけられてしまったのは恐らく誤算でしたが、実際にエジプトの人々は描写を観察する限り、彼らが善良であるという保証は一切ありません。つまり、やや悲観的ながらもアブラムの見解も決して間違っていなかったように思われるということです。特に、20章で全く同じケースが語られるアビメレク王の時とは違い、神様が容赦なくファラオの宮殿を打たれているところから考えても、ファラオ周りの王宮の人々がアブラムに邪な策略を持っていただろうと読むことは妥当であると考えられます。

要するに、エジプトの人々は、決してロトが考えるような善良な人々だったとは限らないという話です。「政治が上手」で、ただ悪意を巧みに隠して「親切」に振舞える人は、一見、表向き温厚な人に見えます。交渉の素人ではこれが見抜けません。つまりアブラムは、自分が騙され得る存在であるという危険性をも理解して、考慮し、警戒したことで、結果として今回のようなことになったということです。勿論、エジプトの人々が全員邪悪であったと決めつける必要はありません。「邪悪な人々も混ざっていること」そのものが危険であったというだけの話です。アブラムにとって、ロトのように「人々と理解し合えるに違いない」という可能性に賭けて、警戒せずにエジプトに入るのは、あまりにもリスクが高すぎるように思われただけのことなのです。

……しかし、そのような事情やアブラムの主観、そして事実関係がどのようなものであったとしても、それはロトにとって関係が無いことでした。エジプトでの一件は、彼がアブラムに躓き、失望するには十分な内容であったのです。何より、ロトの目から見れば、自分の何が悪かったのかも理解せずに、ハム族の人々を差別するアブラムの姿は、どうしても許しがたかったのです。

こうしてロトは、堕落した(と思っている)叔父アブラムを捨てて、ヨルダン川の低地を選んで、「出発」してしまいました。豊かで食物に余裕がある地域の人々なら、「エジプトの人々」のように善良で親切に違いないと考えたのです。ロトは、可能な限り、アブラムから離れたツォアルの一つ手前にある街、ソドムを選びました。大きな町ならば余裕もあるので、より善良な人々が住んでいると考えたのかもしれません。しかし、聖書は「ところが」と前置きして、ロトの考えが甘かったことを指摘します。ソドムの人々が、彼の考えと裏腹にあまりにも邪悪な人々だったからです。それでも、ロトは、堕落したと考え軽蔑するアブラムの代わりに、自分だけは祝福の基として正しく生きようと、ソドムの街の人々に寄り添い、融和を試み続けます。その点で彼は、まぎれもなく義人だったのです。しかし、ロトは神様の召命の正しさについて理解していたのに、それにこだわるあまり、神様がアブラムを選ばれたという事実から目を背けました。このようにして彼は、御言葉の握りたいところだけを握り、アブラムを呪う(軽蔑する)という失敗に陥ってしまいました。これによって、ロトは二度と、アブラムの天幕に戻ることがなくなってしまったのです。

R8.10.25 第四主日オープンチャーチ伝道礼拝説教

『贖いの儀式』

聖書箇所:ヘブル人への手紙4章16節~5章10節 (新約聖書442頁)

中心聖句:『ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(ヘブル人への手紙4章16節)

2026年10月25日(日) 第四主日オープンチャーチ伝道礼拝説教

私たちはこの世界で、それぞれ自分の力と責任で生きていかねばなりません。それを受け入れるのが「大人になる」ことだと思います。しかし、その一方で、人生に於いて私達が受ける痛みはあまりにも多すぎます。だから、時に痛みを明け渡せる存在を捜してしまうのは仕方ないことなのです。昔はその痛みを友人や親に、現代ではAIに相談するのですが、それで解決してしまう程、私達の痛みは単純ではありません。だからこそ、それを深刻に思う程に、その解決の為に我々は教会を始め様々な門を叩くのです。ところが、私達は門を叩く一方で、門の先にいる相手が、自分の痛みを適切に扱ってくれるかどうかを知りません。教会の「神」に対しても、「初対面だしぞんざいに扱われるのでは」とも思うかもしれません。しかし、今日は一つのことを知って頂きたいと願います。私たちの痛みは、この天地を作られた「神」の激しい情熱の中心で、もう2000年以上も昔から燃え続けているのです。

というのは、元々私たちは天の父なる神と、その独り子である子なる神、即ちキリストによって創造されたと聖書に証されているからです。私達一人びとりも、母のお腹の中に居る時に、このお二人がデザインして造って下さったが故に、各々が自慢の最高傑作として大切にされているのです。しかし、いかんせん心が弱いので、私達は両者の最高傑作であるにも関わらず、生きる中で、痛みに耐えきれなくなってしまいます。その結果、人を傷つけるなど様々な不始末を起こしてしまい、その罰を受けることを迫られるのです。辛さに耐えきれず酒を飲んで人を殴れば、翌日は留置所のお世話になります。辛さは同情されるべきですが、人を殴った不始末の責任は当然取らねばなりません。聖書によれば、そのような「不始末」の代償は永遠の滅びと苦しみであると語られています。生まれてから一度も失敗しない人などいませんから、私達は皆が等しく自分の不始末の責任をとって滅びるのです。それを見て憐れまれるのは、他でもない父なる神でした。父なる神は、私達が受ける罰の身代わりとして、子なる神であるキリストを、十字架につけて死なせることを決められました。キリストも私達を愛して、十字架の上で死ぬ為に人となられ、イエスという名でこの世に生まれて下さったのです。

ところが、人となったキリストは、自ら体験した「痛み」を通して、私たちが痛みに苦しむ姿を思い起こし愕然とされます。病気で苦しむ我が子の苦しみを、正確に体験してしまった親のように、自分の痛みではなく、それに痛む私達の思いを慮って愕然とされたのです。ここで潮目が変わります。それまでは、従順に引き受けるものであった十字架の意味が、キリストの中で決定的に変わってしまいました。キリストは、私達の痛みに苦しむ姿を見て、激しく燃え上がる炎のような「熱」を持たれました。そして涙ながらに祈られ、父なる神に詰め寄るがごとく、御自分の「十字架の死」と引き換えに私たちを救ってくださるように、激しく叫ばれたのです。その叫びの「熱」は、十字架の企画者である父なる神の心をも揺り動かす程でした。父なる神は、元々その予定であったにも関わらず、まるで「彼らの痛みに対する熱が足りなかった」と思い直したかのように手を挙げ、「思い直されることはない。『あなたは メルキゼデクの例に倣い とこしえに祭司である』」とキリストに誓われました(詩編110篇4節)。つまり、私達の救いにおける権限を、未来永劫、全てキリストに渡してしまわれたのです。神様は、私達をただ憐れんで、十字架による贖い(身代わり)の儀式を行われた訳ではありません。一方的に初対面であると思っている私達の顔を見て、その人生の痛みの一つ一つを知り、その悲痛な叫びへの情熱を燃料として、今現在も激しく、なお一層激しく燃え続けておられるのです。

神様は私達を知らないのでしょうか。とんでもありません。顔を見て「誰だ?」と言われるのでしょうか。全くの思い違いです。もうずっと私達は、私達自身も知らない所で、父なる神とキリストの間で中心的な「課題」であり、「話題」であり、「取り組み」であるとされているのです。だからこそ、私達も今、父なる神とキリスト相手に初対面のように遠慮してはなりません。お二人は揃って、「あなたこそが話題の中心なのだから早くこちらへ来なさい」と顔を見て、暖かな熱意ある声で招き、私達の携えてきた痛みを「その根に至るまで燃やし尽くす」と約束して下さるのです。そのような交わりに今、招かれているのですから、それに応えて私たちも、大胆にそばへと近づこうではありませんか。

R8.10.18 第三主日礼拝説教

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『悔い改めにふさわしい実』
聖書箇所:ルカによる福音書3章1~14節 (新約聖書113頁)
中心聖句:『まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』(ルカによる福音書3章7~8節)
2026年10月18日(日) 第三主日礼拝説教

私たちは生きていく中で必ず罪を犯します。犯した瞬間には平気でも、後から不意に思い出されて良心が激しく痛み、蝕まれるのは、誰でも一度は体験することでしょう。しかし、それとは裏腹に、私たちが「自分は罪人です」と告白する際、それと同種の痛みが心に表れないような気もします。それは、一体何故なのでしょうか。

バプテスマのヨハネは、まさに「悔い改める」為にバプテスマを受けにやってきた人々に対して、彼らを「まむしの子孫」と呼び、悔い改めに相応しい実を結ぶように警告しました。悔い改めの実とは、「自分の犯した罪を正しく認識し、自覚すること」です。たとえ「私は罪びとである」と認めたとしても、具体的に犯した罪について顧みず、その深刻さに無頓着であるなら、その悔い改めに意味はありません。
故にヨハネは、「私達はどうすればよいのか」と問う群衆に、困窮した隣人を見捨てた時のことを、取税人には、必要以上に取り立て私腹を肥やしたことを、そして兵士には弱い人から何度も脅しとったことを思い出させる為に、それを正して行って見せるように命令したのです。決して彼らの生活を正しく整え、義に至らせようとしたのではありません。むしろ、日常的に犯す罪を入り口に、自分の罪の深刻さを自覚させようとしたのです。

私たちは、漠然と自分が罪びとだと告白する時より、不意に一つの罪を思い出した瞬間にこそ、激しく心を痛めます。例えその痛みが一過性であっても、その時、私たちはまぎれもなく自分の罪を自覚しているのです。もし、そのような瞬間に、あえてそれに向き合おうとするのなら、心の痛みは私たちに、「その痛みは一つだけではない」ことを訴えます。今日相手を傷つけた言葉、昨日破った約束、昔に返し忘れて手元に残っているあの品物など、多くの忘れていた心の痛みを私たちに思い出させて苛むのです。それ故、「本物の罪の自覚」は常に複数形です。そして、その数は際限なく増え続け、とうとう担いきれないほどに大きくなって、私達を押しつぶすのです。

その状態になった時、私たちは、自分がまぎれもなく「まむしの子孫」の一人であったことを思い知らされます。それは私たちにとって、何より辛い瞬間に違いありませんが、そのような時だからこそ神様を心から求める機会にも繋がります。何故なら、様々な心の障害が取り除かれて、神様と私たちの間に敷かれた道が、真っすぐに整えられるからです。

そこを通って来られる神様も、心を痛めた私たちを決して責められません。悔い改めた私たちに優しく語り掛け、イザヤ40章の預言の通り、「その苦役は終わり、その咎は償われている」と、十字架による罪の赦しを宣言して下さるのです。ヨハネの働きは、そのように私達を、イエス様に出会わせる為にありました。現代の私たちは、その働きを通してこの方に出会い、十字架の救いを知らされているのです。だからこそ、私たちは罪を自覚して苦しむ所よりも更に先へ進まねばなりません。今日、私たちはそこから救ってくださった方の為に、一体何が出来るでしょうか。

R8.10.11 第二主日礼拝説教

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題: 「寄り添いの呼びかけ」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章41~52節」(新約聖書112頁)
中心聖句:『母はこれらのことをみな、心に留めておいた。』(ルカの福音書2章51節)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

イエス様に出会い救われた人にとって、神様から与えられる人生の中での役割はとても大切なものとなります。それは私たちの人生の中で、果たすべき目標になることでしょう。しかし、私たちがそれに熱心であるほど、段々辛くなってしまうのもまた事実です。使命の中で受ける労苦は、私たちの心を段々飢えさせ、乾かしてしまいます。そうなった時、私たちはそれにどう対応できるでしょうか。

心が飢え渇くと、踏み固めた地面になかなか水が入らないように、私たちは本来気づくことが出来る道行の豊かさを見失ってしまいます。今日の箇所で、行方の判らなくなったイエス様を捜していたマリアとヨセフも、あの特別な聖夜から12年の歳月を経て、すっかり心の潤いを失っていたようです。彼らはイエス様から、「父の所に居るべきなのをご存じなかったのですか」と問われた際、その意味を理解できませんでした。むしろ「それが判るなら何故、父(ヨセフ)の前から居なくなったのか」と思ったからです。それを聞けば私たちは、「この二人の心はなんて鈍いのだろう」と思うかもしれません。しかし、それは私たちが聖夜の記事から間を置かずに今日の箇所を読んでいるのでそう思うだけです。過ぎ越しの祭りに夫婦で参加するのは、当時よほど熱心でなければ行わないことですから、彼らは間違いなく自分の召しに敬虔に向き合い続けていたのです。しかし同時に、二人は「救い主を育てる」という使命に集中するあまり、労苦の中で、「俗世で生きる父と母」以外の感覚を摩耗させていました。ダビデの末裔としての覚悟や、ガブリエルの告知に勇敢に応答したあの豊かな信仰がすっかり渇き、固まってしまった結果、イエス様の「父」という言葉が、ヨセフ以外に結びつかなくなっていたのです。

「虐げは知者を狂わせる」と聖書も言うように、長年の抑圧や労苦は私たちの心を乾かします。自らの責務に誠実であるならなおのことでしょう。しかし、それはその人自身が請け負うべき責任でしょうか。少なくとも、私たちを召した神様は、決してそうであるとは言われません。むしろ「義に飢え渇く人は幸いです。何故ならそれは満たされるから」と言われ、私たちが自らの召しの中で失う潤いに介入し、御自らそれを取り戻して下さいます。マリアも恐らく神様から、イエス様の何気ない言葉を通し呼びかけられたことで、理解出来なかった言葉を改めて「思いめぐらせた」のでしょう。自身がただ労苦するだけの「母」ではなく、天の父なる神様とその独り子の豊かな交わりに、一番近い所で奉仕する「母」であることに気づき、その日から、それを分かち合って下さるイエス様の言葉を喜んで心に蓄えるようになったのです。同じように私たちも、その責務や労苦が無くなる訳ではないのですが、神様ご自身が私達の心を耕して、その道行に元々ある豊かな恵みに気づかせて下さいます。だからこそ、私たちは自らの心の渇きを請け負う必要がありません。寧ろそれを神様に委ね、安心して召しに集中すべきなのです。