R8.9.6 第一主日聖餐礼拝式説教

メッセージ

題: 「しるしの飼い葉桶」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章8~20節」(新110頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

各地で大雨が続き、毎日のように避難警報が告知されています。警報とは、警告を目的とするが故に、テレビ、ラジオ、スマホなど、あらゆる手段をもって告知側が相手に届けようとするものです。勿論聞き逃すこともあるので、必ず全員に届く保証は無いのですが、少なくとも鳴らせば終わりというものではありません。神様が語られる応答や御言葉も同じようなもので、正しく語られたのであとはどうでもよいではないのです。私たちが有限であるからこそ、神様は御言葉が「届く」ことにこだわられます。

イエス様が生まれた夜、マリアは家畜小屋の中でたった一人、産んだ御子を布に巻き、飼い葉桶に寝かせねばならない憂き目にあっていました(7節)。あまりにも悲惨すぎる御子の有様は、少なくともマリアに取って理解に苦しむ状況であったと思われます。まさか、御子を家畜の餌箱に寝かせるのが神の御心だなどとは結論したくもなかったでしょうし、不用意にエリサベツの家に出かけたせいで、一時は夫のヨセフに離縁まで覚悟させてしまった自身の不注意という自責の材料も整っています。神様が沈黙されているかのように見えるからこそ、その静寂は、むしろマリアが自分を責めて心を痛めるのに十分な働きをするものでした。

そのようなマリアに対し、神様は本当に無言だったのでしょうか。決してそうではありません。マリアが息も絶え絶えに飼い葉桶にイエス様を寝かせていたその時、既に神様は天使を通して羊飼い達に「飼い葉桶に眠るみどりご」の存在を報せておられました。尊い御子が飼い葉桶に寝ていることを案じた羊飼い達もまた、急いで行動を開始していたのです。

羊飼い達は、必要ならば御子とマリアを助けることも視野にいれた大勢の応援でもありました。彼らからの報せを聞いた時、マリアは、少なくとも自分が神様から憎まれたり、退けられたりしているのではないと知ることが出来たのです。マリアにとって、出来事を整理して思い巡らすにはそれで十分でした。神様からの応答は、確かに彼女の心に納まったのです。

神様からの応答を把握するのには、当然時間がかかります。しかし神様は、もう話したからそれが届くかどうかはこだわらないと言われる方ではありません。むしろ、語る相手にそれが届き、理解されたどうかに非常にこだわり、それで喜ぶ私たちの姿を見て、御自身も喜ばれる方なのです。その証拠に、飼い葉桶から始まる福音のしるしもまた、私たちの心に正しく届いている筈です。だからこそ、判らない出来事が多く起こる信仰生活の中で、私たちもまた神様を信頼し、「聞く」ことを決してやめてはならないのです。

京都教区オンライン合同礼拝説教「何度でも何度でも何度でも 愛」 大頭眞一師(京都教区長)

 

トーラーは律法と訳されています。広義にはユダヤ教における神の教えや伝統的な律法全体を指しますが、狭義には 旧約聖書の最初の五つである「モーセ五書」を指します。狭義のトーラーは出エジプトの後で与えられました。

まず出エジプト、そしてシナイ山(トーラーが与えられ始めた場所)。この順序はたいせつ。イスラエルは、トーラーを守ったから救われたのではありません。何もしていないのに、ただ神さまの恵みによって救われ、それからトーラーを与えられた。ですから「おきて」や「いましめ」を連想させる「律法」よりも「教え」と訳するほうがよいのです。

「救われた神の民が神と共に歩くための教え」です。十戒も十誡と書きたい。「神と共に歩く歩き方を教える十の愛の言葉」です。ですから伝統的にユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を進むトーラーに口づけします。神の愛の言葉、神のラブレターを愛するのです。そこに神の愛を感じ、神の心を聴くために。今日はトーラーから神の心を聴きます。 【私の名を】 驚くべき出エジプトの海割りの救いからわずか一か月。モーセが十誡を授かるために不在の間、イスラエルは早くも金の子牛を偶像礼拝します。 柔和なモーセは怒りを燃え上がらせ、十誡の石板を砕きます。たいせつな神の愛の手紙を砕くというのは異常な怒り。そして金の子牛を火で焼き、水にまき散らし、イスラエルに飲ませます。そして三千人が命を無くす。なんともすさまじい怒りです。

私たちはこういう箇所を読むと「神さま恐ろしい。戒めを守らなければ」と思いがちです。けれども、モーセのこの怒りは、神を愛するゆえの痛みからであることを見逃してはなりません。 イスラエルを愛し、イスラエルを救った神さま。その愛に背を向けるイスラエルの愛のなさにモーセの心は痛みます。神の痛みとモーセの痛みが同期して嘆きがとまらないのです。そしてついにモーセの思いが噴き出します。

「今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください。」(32)と。考えてみるとおかしな言葉です。モーセがイスラエルの人びとの罪を負えるわけではありません。またモーセの名がいのちの書から消されるなどありえないことです。それでもモーセは激しくイスラエルをあわれみ、思わずこう言ってしまいました。

理屈の通らぬ愛を叫び、とりなしたのでした。 かつては「自分は口が重い」とかなんとか言って、尻込みしていたモーセです。そのモーセが我を忘れて自分を注ぎ出しています。いま、モーセの心は神さまの心と重なって同じ同期を刻んでいます。あわれみに胸を熱くして。こんなモーセに神さまはすくなからず慰められたのではないか、と私は思うのです。人間が神さまを慰めることができるなんて、とみなさんは思われるでしょうか。私が神さまを慰めるなんて、と。けれども、私たちは神のかたちに造られたおたがい。神の友とさえ呼ばれています。そんな私たちが、どうにもならないことと知りつつも、神さまの心を思って、嘆き、怒り、自分を投げ出すなら、それは神さまの慰めであるにちがいない、とそう思うのです。

【そして、主イエス】 ここで私たちが思い浮かべるのは、もちろん主イエス。神を愛することを忘れたユダヤの指導者たちへの怒り、例えば、宮清め。それにもかかわらず、いや、それだからこそ、自分を投げ出された十字架の痛み、何よりも父との断絶の痛みを思うのです。その十字架と復活によって、私たちは神の子とされました。もうすでに。神の友に。だから神の心でこの世界をあわれみ、愛の破れをつくろうために自分を投げ出すお互いとされています。

「けれども私はそんな立派ではない」と尻込む私たち。罪の記憶、失敗の悔いが私たちを引き下ろそうとします。痛みの思い出、うずく傷が私たちの愛を妨げます。けれどももう私たちの内に癒しは始まっています。いつも申し上げることですが、神さまの愛の言葉の湯治と仲間との愛し合う実験、リハビリによって。愛し損ねたとしても、もう一度。何度でも、何度でも、何度でも、愛の冒険は続きます。あきらめない神さまの愛ゆえに。

R8.8.9 第二主日聖餐礼拝式

題: 「深い憐み」
聖書の箇所 「ルカの福音書1章57~80節」(新109頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
57 さて、月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
58 近所の人たちや親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをかけてくださったことを聞いて、彼女とともに喜んだ。
59 八日目になり、人々は幼子に割礼を施すためにやって来た。彼らは幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
60 母親は「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。
61 彼らは彼女に「あなたの親族には、そのような名の人は一人もいません」と言った。
62 そして、幼子にどういう名をつけるつもりか、身振りで父親に尋ねた。
63 すると彼は書き板を持って来させて、「その子の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
64 すると、ただちにザカリヤの口が開かれ、舌が解かれ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
65 近所に住む人たちはみな恐れを抱いた。そして、これらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体に語り伝えられていった。
66 聞いた人たちはみな、これらのことを心にとどめ、「いったいこの子は何になるのでしょうか」と言った。主の御手がその子とともにあったからである。
67 さて、父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した。
68 「ほむべきかな、イスラエルの神、主。 主はその御民を顧みて、贖いをなし、
69 救いの角を私たちのために、しもべダビデの家に立てられた。
70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
71 この救いは、私たちの敵からの、私たちを憎むすべての者の手からの救いである。
72 主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。
73 私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。
74 主は私たちを敵の手から救い出し、恐れなく主に仕えるようにしてくださる。
75 私たちのすべての日々において、主の御前で、敬虔に、正しく。
76 幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、
77 罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。
78 これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、
79 暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」
80 幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。

メッセージ
1,朝に出勤し、作業台の上にある見慣れない箱を退かそうとしたら、社長の大事な荷物だと判って慌てて手を引っ込めた。みたいなことが仕事の中ではたまに起こります。そうした品とは、なるべく距離を取りたくなるのが人情というものです。今日の箇所でも、ヨハネが特別な子であると判ったとたんに、ザカリヤの親類や近隣の人々は、一斉にヨハネから距離を取ろうとしました。聖別された神様の持ち物に、不用意に触ってはいけないと考えたからです。

2,神様の持ち物に触れることが、大変恐ろしいというのは事実です。だから親類や近隣の人々の反応は当然のことだと思います。しかし、ザカリヤは距離をとった彼らに、賛歌(ベネディクトゥス)を通して、この特別な子ヨハネは、むしろ皆で近づくべきであり、神様もそのように招かれていると証しました。何故なら神様は、ご自身から距離を取って恐れる人々を招く為に、贈り物としてヨハネを聖別されたからです。冒頭に話した「社長の荷物」も、確かにそれだけを聞けば恐ろしいものかもしれません。しかし、それが社長から現場へ差し入れられたケーキだったとしたらどうでしょうか。皆、そうと判れば恐れずに受け取ろうと集まるはずです。何故なら、それは社長が皆の為に用意した贈り物であると、現場の人々が知ったからです。神様が求められることも、それと同じです。贈り物であるからこそ、皆にヨハネに近づいて欲しいと招かれたのです。
神様は、良いものを聖別されます。それを食卓のように整え、私たちを招き、与える為です。神様は、私たちを喜ばせることを通して、ご自分もまた喜びたいと願われる方なのです。その為に必要なら、受肉されたイエス様のように、ご自分から近づいて呼びかけてすら下さいます。神様は、私たちとの「近さ」を喜ばれる方なのです。私たちはそのような神様に招かれ、既に近くに居るのです。

3,神様が私たちとの近さを喜ばれるのは、深い憐みの故です。その近さとは、私たちの日常生活の中でも常に感じることの出来る近さです。仕事机の傍らに、寝室に、台所に、居間のソファの上に、常に神様は居られて、私たちとの生活を喜んでくださいます。このような神様に対し、私たちは今日、語り掛けるべきなのです。

 

R8.8.2 第一主日礼拝式

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題: 「イエスに似た者へ」 聖書の箇所 「ペテロの手紙第二1章1~8節」(新473頁) ※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり … 続きを読む

R8.7.26 オープンチャーチ礼拝式

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題: 「いのちの約束」 聖書の箇所 「創世記3章20~21節」(旧4頁) ※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会 20 人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。 21 神である主 … 続きを読む