R8.6.14 花の日/子供の日主日礼拝

題: 「献げた子を受ける」
聖書の箇所 「ルカの福音書1章24~25節」(新107頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
24 25 しばらくして、妻エリサベツは身ごもった。そして、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言い、五か月の間、安静にしていた。

1,ガブリエルの告知から五か月程後、エリサベツの懐妊は他の人の知る所になりました。神様の御言葉が、確かに実現したのです。しかし、その折に彼女は、何故か「名誉回復」のみを感謝します。母になった喜びは、賛美の内に挙げませんでした。

2,エリサベツは、自身が母になることを喜んだり、ヨハネが我が子であると主張することを慎重に避けていたようです。後に訪問したマリアに対して、御言葉の実現を信じる幸いを証する時ですらも、自身が母とされたことは例に挙げませんでした(45節)。
実は、それは夫のザカリヤも同じです。彼は父という単語や、ヨハネに「我が子」、「息子」といった表現を用いませんでした。

3,これは恐らく、生まれてくるヨハネが聖別されていた為です。彼には特別な使命がありましたから、ザカリヤが父親として、ヨハネに「息子」の役割を求めると、その使命が果たせなくなってしまうのです。聖書的な価値観から見ても、ヨハネは後継ぎである長子の役割を果たすことができません。だから、この特別な子を神様から預かるにあたって、ザカリヤとエリサベツは、まず「子を所有する親になりたい」という願いを献げねばならなかったのです。ザカリヤ夫妻はこの求めに対して忠実に応答し、言葉を選びました。その迷いの無さは、若い時分にとっくにその思いを献げていたようにすら見えます。それでも、ザカリヤ夫妻は大いに喜びました。救済の働きに招かれるなどの多くの恵みが、ヨハネを通して二人に、献げた以上に注がれたからです。

4,「思い通りになる子を所有したい」、「子を所有する父母になりたい」とは、誰もが一度は考える自己実現の願望だと思われます。しかし、その思いを献げる時、神様はその信仰に応答して、私たちに更に豊かで、広い意味合いを持つ、多くの子を預けて下さいます。献げたものを、神様は必ず顧みられるからです。

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