R6.3.17 礼拝式

題: 「十字架の前の祈り」
聖書の箇所 「マタイの福音書26章36~46節」(新約P.57)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。
41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。
43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。
44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。
45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。
46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

1,祈りの意味
36~37節「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに『わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。」
祈りは神様と心を通わせ、いのちの力をいただくために行うものです。十字架を前に、死ぬほどの思いになられたイエス様は、人としての肉の弱さを神様に訴え、助けを得るために祈られました。

2,十字架の前の祈り
39節「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」
敬虔なユダヤ人は、立って天に顔を向けて祈ります。ところがイエス様はひれ伏して祈られました。これは罪人の祈りの姿勢です。イエス様は私たち罪人の身代わりとなられて祈り、みこころを求められました。

3,目を覚まして祈る
40~41節「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
「目を覚まして祈る」とは、肉の弱さを自覚し、神様の救いを求めて祈ることです。弟子たちは自分自身の肉の弱さと向き合うことができませんでした。そのため、神様の救いを理解できず、祈ることができませんでした。この弟子たちのために、イエス様は十字架にかかられました。

 

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