題: 「寄り添いの呼びかけ」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章41~52節」(新約聖書112頁)
中心聖句:『母はこれらのことをみな、心に留めておいた。』(ルカの福音書2章51節)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
イエス様に出会い救われた人にとって、神様から与えられる人生の中での役割はとても大切なものとなります。それは私たちの人生の中で、果たすべき目標になることでしょう。しかし、私たちがそれに熱心であるほど、段々辛くなってしまうのもまた事実です。使命の中で受ける労苦は、私たちの心を段々飢えさせ、乾かしてしまいます。そうなった時、私たちはそれにどう対応できるでしょうか。
心が飢え渇くと、踏み固めた地面になかなか水が入らないように、私たちは本来気づくことが出来る道行の豊かさを見失ってしまいます。今日の箇所で、行方の判らなくなったイエス様を捜していたマリアとヨセフも、あの特別な聖夜から12年の歳月を経て、すっかり心の潤いを失っていたようです。彼らはイエス様から、「父の所に居るべきなのをご存じなかったのですか」と問われた際、その意味を理解できませんでした。むしろ「それが判るなら何故、父(ヨセフ)の前から居なくなったのか」と思ったからです。それを聞けば私たちは、「この二人の心はなんて鈍いのだろう」と思うかもしれません。しかし、それは私たちが聖夜の記事から間を置かずに今日の箇所を読んでいるのでそう思うだけです。過ぎ越しの祭りに夫婦で参加するのは、当時よほど熱心でなければ行わないことですから、彼らは間違いなく自分の召しに敬虔に向き合い続けていたのです。しかし同時に、二人は「救い主を育てる」という使命に集中するあまり、労苦の中で、「俗世で生きる父と母」以外の感覚を摩耗させていました。ダビデの末裔としての覚悟や、ガブリエルの告知に勇敢に応答したあの豊かな信仰がすっかり渇き、固まってしまった結果、イエス様の「父」という言葉が、ヨセフ以外に結びつかなくなっていたのです。
「虐げは知者を狂わせる」と聖書も言うように、長年の抑圧や労苦は私たちの心を乾かします。自らの責務に誠実であるならなおのことでしょう。しかし、それはその人自身が請け負うべき責任でしょうか。少なくとも、私たちを召した神様は、決してそうであるとは言われません。むしろ「義に飢え渇く人は幸いです。何故ならそれは満たされるから」と言われ、私たちが自らの召しの中で失う潤いに介入し、御自らそれを取り戻して下さいます。マリアも恐らく神様から、イエス様の何気ない言葉を通し呼びかけられたことで、理解出来なかった言葉を改めて「思いめぐらせた」のでしょう。自身がただ労苦するだけの「母」ではなく、天の父なる神様とその独り子の豊かな交わりに、一番近い所で奉仕する「母」であることに気づき、その日から、それを分かち合って下さるイエス様の言葉を喜んで心に蓄えるようになったのです。同じように私たちも、その責務や労苦が無くなる訳ではないのですが、神様ご自身が私達の心を耕して、その道行に元々ある豊かな恵みに気づかせて下さいます。だからこそ、私たちは自らの心の渇きを請け負う必要がありません。寧ろそれを神様に委ね、安心して召しに集中すべきなのです。