R8.10.18 第三主日礼拝説教


『悔い改めにふさわしい実』
聖書箇所:ルカによる福音書3章1~14節 (新約聖書113頁)
中心聖句:『まむしの子孫たち。だれが、迫り来る怒りを逃れるようにと教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。』(ルカによる福音書3章7~8節)
2026年10月18日(日) 第三主日礼拝説教

私たちは生きていく中で必ず罪を犯します。犯した瞬間には平気でも、後から不意に思い出されて良心が激しく痛み、蝕まれるのは、誰でも一度は体験することでしょう。しかし、それとは裏腹に、私たちが「自分は罪人です」と告白する際、それと同種の痛みが心に表れないような気もします。それは、一体何故なのでしょうか。

バプテスマのヨハネは、まさに「悔い改める」為にバプテスマを受けにやってきた人々に対して、彼らを「まむしの子孫」と呼び、悔い改めに相応しい実を結ぶように警告しました。悔い改めの実とは、「自分の犯した罪を正しく認識し、自覚すること」です。たとえ「私は罪びとである」と認めたとしても、具体的に犯した罪について顧みず、その深刻さに無頓着であるなら、その悔い改めに意味はありません。
故にヨハネは、「私達はどうすればよいのか」と問う群衆に、困窮した隣人を見捨てた時のことを、取税人には、必要以上に取り立て私腹を肥やしたことを、そして兵士には弱い人から何度も脅しとったことを思い出させる為に、それを正して行って見せるように命令したのです。決して彼らの生活を正しく整え、義に至らせようとしたのではありません。むしろ、日常的に犯す罪を入り口に、自分の罪の深刻さを自覚させようとしたのです。

私たちは、漠然と自分が罪びとだと告白する時より、不意に一つの罪を思い出した瞬間にこそ、激しく心を痛めます。例えその痛みが一過性であっても、その時、私たちはまぎれもなく自分の罪を自覚しているのです。もし、そのような瞬間に、あえてそれに向き合おうとするのなら、心の痛みは私たちに、「その痛みは一つだけではない」ことを訴えます。今日相手を傷つけた言葉、昨日破った約束、昔に返し忘れて手元に残っているあの品物など、多くの忘れていた心の痛みを私たちに思い出させて苛むのです。それ故、「本物の罪の自覚」は常に複数形です。そして、その数は際限なく増え続け、とうとう担いきれないほどに大きくなって、私達を押しつぶすのです。

その状態になった時、私たちは、自分がまぎれもなく「まむしの子孫」の一人であったことを思い知らされます。それは私たちにとって、何より辛い瞬間に違いありませんが、そのような時だからこそ神様を心から求める機会にも繋がります。何故なら、様々な心の障害が取り除かれて、神様と私たちの間に敷かれた道が、真っすぐに整えられるからです。

そこを通って来られる神様も、心を痛めた私たちを決して責められません。悔い改めた私たちに優しく語り掛け、イザヤ40章の預言の通り、「その苦役は終わり、その咎は償われている」と、十字架による罪の赦しを宣言して下さるのです。ヨハネの働きは、そのように私達を、イエス様に出会わせる為にありました。現代の私たちは、その働きを通してこの方に出会い、十字架の救いを知らされているのです。だからこそ、私たちは罪を自覚して苦しむ所よりも更に先へ進まねばなりません。今日、私たちはそこから救ってくださった方の為に、一体何が出来るでしょうか。

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