R8.9.13 第二主日礼拝式説教

メッセージ

題: 「正しい言葉」
聖書の箇所 「ルカの福音書2章21~35節」(新111頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

先日の豪雨の際、食事中に知り合いへ連絡をとっていたところ、娘から「食事中に端末をいじってはいけない」と指摘されました。全く正しい指摘で、食事中に行うべきではなかったと大いに反省しました。「正論」という言葉は、近年、あまり良い意味で使われないように思われます。しかし、正しいことを正しく述べるのが悪いことであろうはずがありません。寧ろ、それが正しく用いられる時、私たちの心は大いに慰められるのではないでしょうか。

イエス様が出生された夜の後、羊飼い達の報せを聞いてもベツレヘムの人々はその態度を改めなかったようです。マリアとヨセフは、相変わらず彼らからの支援を受けることができず、過酷な状況を過ごしました。誰からも注目されずにイエス様の命名を行い、エルサレム神殿へ儀式に出かけた際にも、本来、出産後の儀式に供えるはずの子羊ではなく、貧しい人が代わりに献げる鳩を携えていました。誰かがイエス様の誕生を祝って贈り物をしていたのなら、子羊一匹ぐらい用意出来るはずです。しかしそうではないのですから、イエス様の誕生が誰からも祝われなかったことが判るのです。
救い主である前に、両親にとってイエス様は初めて生まれた我が子です。このように、周囲の人々からイエス様が無視されることは、二人の心を痛めるのに十分なものでした。それにいち早く気づいたのは、二人の所へ聖霊に導かれてやってきたシメオンです。彼は、救い主を抱いて、安らかにこの世を去れると神様に感謝しましたが、自分の子供が「祝われた」という事実に驚愕している両親の顔を見た時、その心を痛めて場を去れなくなりました。彼は心を痛めながら御子が誰からも祝われないのは「しるし」に定められているからであり、決してその価値がないからではないこと。そして、これからもそれを見る母の心は、剣に刺し貫かれる程痛むが、決して無駄な痛みではないことを語り、神のなさることを誤解をしてはいけないと慰めたのです。

シメオンが話した言葉は苦境を誤魔化さず、寧ろ厳しい現実をそのまま見据えるような、正確な内容でした。しかし、それが、むしろマリアやヨセフの心を慰める働きをします。何故なら、御子には価値があり、御子の為の痛みにも価値があり、それを理解して共に痛む人もいることが、正しく二人へ伝えられたからです。神様は、優しい言葉も、耳に痛い厳しい正論も両方述べられるお方です。しかし、いつも、私たちを傷つけ、無視し、責める為ではなく、寧ろ慰め、励まし、立ち上がらせる為に、細心の配慮の中で語り掛けて下さる方でもあるのです。「正しい言葉」はその内容だけではなく、その用い方が適切であるが故に、「正しい言葉」と呼ばれるのです。神様はいつも言葉を正しく用いられます。それを信じることこそが、私たちの信仰なのです。

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