R8.5.10 母の日主日聖餐礼拝式

題: 「確かな教え」
聖書の箇所 「ルカの福音書1章1~4節」(新106頁)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
1・2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序立てて書いて差し上げるのがよいと思います。
4 それによって、すでにお受けになった教えが確かであることを、あなたによく分かっていただきたいと思います。

1,本日の箇所は、福音書の中で唯一、ルカ自身が口を開く箇所です。医師であり、知識人でもある彼が描く高度な挨拶文には、まるで見せつけるかのように彼の教養が表されています。しかし、本来パウロを父とするなら、ルカは付き従う母のように控えめな人物であっつたはずです。一見彼らしくないこの挨拶の中に、どのような意図が込められているのでしょうか。

2,挨拶の手法自体は非常に高度ですが、それそのものが訴える内容自体はひどくシンプルです。それは即ち、「読み飛ばさずに丁寧に読んで、十字架と救いの確信に至って欲しい」というものでした。そう聞けば「なんだそんなことか」と思われるかもしれませんが、これこそがルカ著作全体の結論とも言える核心部分なのです。即ち、記事の順序や配置のそれら全てに意図が込められており、それに注目しなければ、正に今語ろうとしている「福音」を聞き見逃してしまうと、著者本人の言葉で率直に訴えられているのでした。しかし、当時は現代以上に、「何を書いたか」より「誰が書いたか」が問われる時代です。知識を持つ人々に読んで貰う為に、ルカは冒頭で自身の教養を見せつけなければならなかったのです。

3,もし、私たちが彼の著作に敬意を払い、その文章の細部までも丁寧に拾って追いかけるのならば、この福音書は、彼が本当に訴えようとしていた「福音」を、私たちの前に鮮やかにと描き出す作品へと姿を変えます。ルカの福音書は、ただの福音の記録の羅列文書ではなく、正に私たちを確信に至らせる「確かな教え」なのです。ルカの語る「福音」には、大きな力があります。その力で、読者テオフィロも招かれたのです。

 

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