R6.2.4 礼拝・聖餐式

題: 「天の御国に入る者」
聖書の箇所 「マタイの福音書18章1~5節」(新約P.36)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。

1,だれが一番偉いのか
1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。』」
「一番偉い」と訳されていることばは、「大きい」「重大な」という意味もあります。いつもイエス様の近くにいた弟子たちは、天の御国でも最も重視される者ではないかと期待して、そのことを確認するために、イエス様に尋ねたのかもしれません。

2,天の御国に入る者
3節「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。」
弟子たちの「御国ではだれが最も大きいか」という質問に対して、イエス様は小さな子どもを呼び寄せて「子どもたちのようにならなければ、天の御国には入れません」と教えられます。子どもは無条件で父の家で生活することができます。だれが一番偉いのかという考えから向きを変えて、父の愛によって価値ある者とされていることを信じなければ、御国に入ることはできません。

3,イエス様を受け入れる人
5節「また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。」
「子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる」とは、イエス様が十字架にかかられるほど、その人は価値のある尊い存在と受け入れることです。私たちは、イエス様が十字架にかかられるほどの価値が自分自身にあると信じているでしょうか。イエス様の愛を心から信じて受け入れているでしょうか。

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