H29.3.12主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「一粒の麦として」
聖書の箇所 「ヨハネ12:20~28」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
12:20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
12:21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
12:23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。
12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
12:26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
12:27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
12:28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。

過ぎ越しの祭りに来たギリシャ人(ユダヤ教改宗者)たちが、主イエスにお会いしたいと願い出ました。それを聞かれた主イエスは、「時がきた」ことを(2:4)自覚されました。「時」とは<主が十字架に架かられる時>です。主の十字架は、ユダヤ人もギリシャ人も全世界の人間の罪の贖いです。「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」(24) とは、

1、キリストご自身の十字架の死
神であるキリスト(一粒の麦)は、人となって地上に来られ(地に落ち)、十字架に死ぬことを通して豊かに実を結ぶ(全人類の救いとなる)と語られました。主は、そのごとく十字架に死んで一粒の麦となり、その死により、今も多くの実が豊かに結ばれています。人間の苦難と死の運命について、聖書は
「ひとりの人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった。」(ローマ5:12)
と言っています。最初の人アダムがその命の関係を歪め、全人類に罪の影響が及び、死が支配しました。しかし、また「ひとりの従順によって多くの人が義とされる・・。」と言います。キリストは、一粒の麦となって人間の罪と死のさばきを背負って十字架上で死なれ、そのお方の死と従順によって、人は罪と死から解放され、新しく生きる道が開かれました。私たちもまた、このお方の十字架の死による祝福に預かっているのです。

2、人間の新しい生き方の原理原則
自分の欲望を追求する生き方は、虚しく、行きつくところは死です。しかし、自分自身を神と隣人のためにささげ、愛に生きるならば、実のり豊かな喜びの人生を生きることができ、それは、実を永遠まで結ぶ人生なのです。
「あなたたが行って実を結び、その実が、いつまでも残るため」(15・16)
と主は言われました。
自分の命を愛する(自分のことを、第1として生きる)者はそれを失い、自分の命を憎む(自分のことを、第1としない)者は、それを保って永遠のいのちに至る。」(25)のです。これは、キリストの十字架によって救われた者が生きる、いのちの原理原則なのです。自我の追求をやめ、自我に死ぬ生き方こそ、実り多き生き方だと語られています。

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