H29.3.5主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「最大の愛」
聖書の箇所 「ヨハネ15:12~17」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

キリストがあらわされた最大の愛は十字架の愛です。この愛が注がれています。

1、愛の戒め(12)
キリストは弟子たちに一つの「戒め」を与えられました。それは互いに愛し合うことです。「わたしがあなたがたを愛したように・・」(12) 主の愛は、十字架の愛です。これが最大の愛、互いに愛する最高のあり方、愛の完全なモデルです。主の十字架愛は、私たちが互いに愛し合う根拠であり、私たちの愛の模範であり、そして私たちの愛の源泉です。神はこの最大の愛を、神のかたちに造られた人間の中に(それは罪ゆえに壊れていますが)与えておられます。また、聖霊によってキリストの愛を注いでくださっているのです。(ローマ5:5) 「いのちを捨てる」とは、文字通り誰かのために死ぬということだけでなく、自分の命、自分自身を神にささげたものとして生き、隣人にささげて生きることです。パウロは、キリストの十字架のことを思っていた時、神の圧倒的な愛が押し寄せ、愛が脅迫し、
「もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。」(1コリント5:15)
ことを決断させたのです。

2、友と呼ぶ(14,15)
友(フィロス)は、愛する(フィレオー)から来ています。主は、私たちを「わたしの愛する者、わたしの友」と呼んでくださり、友としてとり扱って下さいます。そして、友である私たちに、み心を知らせ打ち明けてくださいます。主は、最後の晩餐の席上、弟子たちに心の内を残りなく告げられました。神はアブラハムにも(創世記18:17)、モーセにも、自分の友と語るように語られました。(出エ33:11)主は私たちに対しても、み言葉と祈りの中で聖霊を通してご自身のみ心を知らせ、友としての交わりを持つことを願っておられるのです。主の十字架の愛を知り、主の愛に迫られ、互いに愛し合う神の愛の戒めに生きる者とされましょう。主の愛と友情を通してキリストの愛に溢れ、互いに愛し合うことの幸いに生かされましょう。

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