H28.12.4主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「神の小羊キリスト」
聖書の箇所 「ヨハネ1:29~37」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。
1:35 その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
1:36 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
1:37 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

「すべての人を照らすまことの光」としてこの世界に来られたイエス・キリスト。その光について証言し、指し示すため遣わされたのがバプテスマのヨハネでした。ヨハネは、主イエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊!」と言いました。

1、「見よ」
ヨハネは、あなたの<信仰>を呼び覚まし心の目を開き見なさいと命じます。目をつぶっていれば陽が輝いていても、光の恩恵は受けられません。神に背を向けたままでは一生かかっても影を踏む生活です。しかし、回れ右して神に立ち帰り、信仰の目、霊の目が開かれると、神の光が人生に差し込むのです。ヨハネは、あなたの心に信仰を呼び覚まし、その信仰によって心の目が開かれて、「見よ」と命じます。

2、「世の罪」
世間一般の罪ではなく、<自分の罪>のことです。一人一人の中に「罪」という、光を隔てる闇があるのです。「私が悪い」と言いつつ、「相手がもっと悪い」と思い、自分よりも人の方がもっと悪いと思い込んでいるところがあります。それは、神の前に立つことがないからです。完全な義、完全な聖という絶対的基準<神>の前に立たなければ、相対的な比べっこの世界では、自分の真相は見えて来ません。しかし、心の底から自分の罪深さがわかった時に、光は差し込みます。
「キリストは、罪人を救うためにこの世に来てくださった」という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」(1テモテ1・15) (ローマ5:20)

3、「神の小羊」
「世の罪を取り除く神の小羊」 ヨハネは、神殿で行われる罪の贖いの儀式に触れています。人が罪を犯した時、罪の贖いのため傷もしみもない羊一頭を選び、神殿に行って小羊の頭に手を置き罪を告白します。祭司が刀で羊を殺し、その血を注ぎ出しました。そのようにして、罪のない小羊に自分の罪を着せて贖ったのです。この儀式は、やがて来られるメシヤを予表(イザヤ53章)していました。イエス・キリストこそ、人が待ち望んでいた「世の罪を取り除く神の小羊」と証言したのです。この時、神の小羊を仰ぎ見ましょう。

 

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