『神に喜ばれる子』
聖書箇所:ルカの福音書3章15節~38節 (新約聖書114頁)
中心聖句:『このようにヨハネは、ほかにも多くのことを勧めながら、人々に福音を伝えた。』(ルカの福音書3章18節) 2026年11月1日(日) 第一主日聖餐礼拝説教
本日は、カトリックに於けるオールハロウズ(全ての聖人の記念日)と呼ばれる日です。昨日のハロウィンの語源になった催しですが、もう一つ、プロテスタント教会に於いても10月31日は、「宗教改革記念日」と呼ばれています。宗教改革者マルティン・ルターは、この10月31日に礼拝堂の扉に「95箇条の提題」を打ち付けました。その翌日に、彼は全ての会衆と聖人の前で、「教会は間違っている」と告発するつもりだったのです。ローマ・カトリック教会は、長い歴史の中で、神様の前に忠実に歩もうとする努力を続けた集団です。しかし、それは同時に、後を絶たない内部の堕落者が起こす騒動との闘いの日々でもありました。そして、時にはルターのように「正しい人」が起こす旋風にすら翻弄されたのです。正しい人にも、間違っている人にも、教会は常に悩まされ続けてきました。
イエス様もまた、正しい人にも、間違っている人にも翻弄されて十字架につけられたお方です。しかし、イエス様が神様に愛された独り子であることは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時に、「あなたはわたしの愛する子」と呼ばれることで確認されています。しかし、この時代、イエス様が父なる神様の大切な独り子であるという事実は、まだ時が来ておらず明かされていませんでした。ユダヤの多くの人々は、イエス様が、ダビデ王家の正当な末裔であるが故に、「神の子」、「ダビデの子」と呼んでいたのです。しかし、福音書の記者ルカは、そのような理解に対して、イエス様の系図を提示することで「本当にそうだろうか?」と訴えます。何故なら、イエス様の父ヨセフは、ダビデ王家の後継者ヤコブ(マタイ1章16節)の「養子」であり、肉親の父親は別にいたからです。故にルカは実父である「エリ」を系図で提示し、「ヤコブの養子であるヨセフの、さらに養子であるイエス様は、本当に王の後継者という意味で『神の子』と呼べるのだろうか?」という大変な事実を提示したのです。
確認を兼ねて重ねて言いますが、現代の私達にとって、「イエス様が子なる神だから『神の子』と呼ばれる」というのは自明の理です。しかし、当時の人には判りません。そこでルカは、この系図にもう一つ面白い仕掛けを施しました。それは、この系図をアダムから神まで遡らせるという仕掛けです。イエス様は子なる神であり、父なる神様の命令に従って、私達被造物全てを実際に作って下さった方です。それ故に、福音を既に聞いてそれを知っている私たちが、「アダム、そして神に至る」という言葉から、アダムを実際に創造されたイエス様が、間に入っていることに気付けるようにしたのです。
これによって「イエス様は、文字通り本当に『神の子』なのだ」とルカは主張しました。だから16-17節でヨハネが訴えた通り、イエス様は私達の罪を赦すことも、裁くこともおできになるのです。決して、人間の王のように、裁きを委託されているのではありません。寧ろ人任せにせず、イエス様はご自分の権威で、私達の行末を憐み深く請け負ってくださるのです。それを父なる神様も、「わたしはあなたを喜ぶ」と認めておられます。だから、私たち自身の「正しさの自認」は裁きに関係ありません。イエス様の裁きを、「裁かれる前に正しいと受け入れられるかどうか」で、全てが決まるのです。
だからヨハネは、「裁きが来る前に悔い改めなさい」と訴え続けました。これが悔い改めのバプテスマの本懐です。「悪いことをするな」と言うのではなく、イエス様が「悪い」と言われることを、素直に「悪い」と認められるようになりなさいと人々に勧めたのです。例え、表面的に正しい行いをしていても、イエス様の裁きを「間違っている」と否定すれば、その人に未来はありません。逆に、罪びとであっても、「私はイエス様の言われる通り罪びとです」と素直にその裁きを認めて告白し、悔い改めるなら、その人には永遠の命が与えられるように、御自分の十字架の血潮によって、イエス様がしてくださるのです。これこそが、現代も変わらない悔い改めの奥義です。宗教指導者として「正しくあったはずの人々」は、悔い改めず、最終的に神の子であるイエス様を「お前が間違っている」と言って十字架につけて殺してしまいました。ユダヤの王ヘロデも、ヨハネの忠告に反発して、自分は悪くないと彼を牢屋に閉じ込めてしまいました。イエス様はそのような人々の為でなく、罪びとでありながらも自分の罪を認めて悔い改める人を探し出し、「今日この家に救いが来た」と言ってくださる為に、この世に来られたのです。私たちが今日、正しい人であるか否かは大きな問題ではありません。ただ、イエス様の言われる言葉を、「そのとおりです」と受け入れることが、求められているのです。
