『変わられた御言葉』
聖書箇所:ルカの福音書4章1節~15節 (新約聖書115頁)
中心聖句:『イエスは彼らの会堂で教え、すべての人に称賛された。』(ルカの福音書4章15節)
2026年11月8日(日) 第二主日礼拝説教
イエス様は洗礼を受けられた後、救い主としての使命を帯びて公生涯を開始されることになりました。しかし、その前に、40日間断食し、サタンの誘惑を受ける為に荒野へ導かれます。それは、私達の罪の罰の身代わりに十字架の上で犠牲になられる資格について、サタンより疑義(疑わしいことを訴え出ること)が挟まれた為でした。十字架で犠牲になられる方は、未来永劫、しみも咎もない永遠の義人でなければなりません。「今日までたまたま罪を犯さなかった」だけで良いなら、生まれたばかりの赤子でも十字架にかかれてしまいます。「今は大丈夫でも、50歳までにはダメかもしれないイエス様」では、私達の救い主足りえないのです。イエス様は、元々子なる神であり、文字通り神の子でしたが、この世に完全な人間としてお生まれになったのもまた事実です。いくら元々神なる方とはいえ、人間になったイエス様が永遠に罪を犯さないなどと、サタンには到底信じられなかったのです。
では、イエス様が罪を犯しうることはどうやって証明すればいいでしょうか。人間の本性が見えるのは、命の危機が迫った時です。だからサタンは、これ以上断食すれば死んでしまうギリギリのところまでイエス様を追い詰めながら誘惑を行いました。一つ目の誘惑は、命の危機に陥ったイエス様にパンを作らせ、奇跡で自分を延命させることです。一度でも命惜しさに奇跡を使うなら、十字架に対しても同じようにするはずです。イエス様の従順を疑い、資格を問うなら、その可能性だけで十分でした。二つ目の誘惑は、権力を与えることです。権力欲しさに偶像を拝むのは、過去に大祭司アロンも金の子牛事件で陥った失敗でした。これはイエス様が所詮、罪を犯しうる人間に過ぎないと証明する最高の機会でした。三つめは、神殿から飛び降りる誘惑です。これは、神の言葉であるイエス様そのものへの誘惑でした。実際にイエス様は、サタンが引用した御言葉によって「飛ぶ」ことも出来る方です。もしそうするなら、引用された詩編は、「空を飛ぶ呪文」として人々に尊ばれることでしょう。そして民は、父なる神でなく「神の言葉」だけを拝むようになりますから、実際それはイエス様が父なる神に成り代わる最高の手段だったのです。「人間」にそのような欲が全く生まれ得ないと、誰が言えるのでしょうか。少なくともサタンはそう考えたのでした。しかし、イエス様はその三つの誘惑を、「人はパンだけで生きるのではない」。「あなたの神である主のみを礼拝し、仕えなさい」。「主を試みてはならない」という御言葉であっさり退けてしまいます。「使命を放棄して生きることに意味はない」「福音を伝える使命を前にして、権力になど何の意味があるのか」「言葉だけが一人歩きして何か利点はあるのか?」と、サタンから見れば、人間の感覚ではなく「神の言葉」視点からバッサリ切られたような結果になってしまったのです。サタンは、イエス様が人間になったから何か変わっただろうと期待して誘惑したのに、「何も変わっていない。インチキではないか」と失望し、退いたのです。
つまりサタンから見れば、「結局、中身は神のままだ。完全に人間になったなど嘘ではないか」という話になるのですが、本当にそうなのでしょうか。決してそうではありません。完全に人間になられた方に、元の状態から何の変化も起こらないなどということがあるはずはないからです。イエス様は人間になられ、私達の抱える弱さを体験されたことで、確かに変化しておられました。私たちの痛みに対し、一層強い熱心さを持ち、御自分の使命の重さを自覚されていたのです。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない」と言われることで、自分が本当に欲しい食べ物は、福音を聞いて喜ぶ人々の笑顔だと言われました。「あなたの神である主のみを礼拝し、仕えなさい」と言われることで、「私も」一人びとりの痛みに寄り添う神の御心に仕えると表明されました。そして、「主を試みてはならない」と言われることで、御言葉は、神の力を試せる便利な「呪文」ではなく、人々の心を痛みから救い得る、福音(ちから)そのものであるとはっきり宣言されたのです。イエス様は、私達の方だけを見て、「福音こそ救いである」と証し、サタンに三つの御言葉をもって勝利してくださったのでした。
イエス様がこの世にやってこられたのは、私達に福音を聞かせる為でした。それは、遠い未来の幸福を約束する為ではありません。正に今この時に、心の痛みに寄り添い、十字架による罪の救いという福音によって、私達を永遠のいのち、即ち神様との交わりに招く為にやってきてくださったのです。イエス様は、その為に全てをなげうって、十字架の上で死なれるまで従順でいてくださいました。私たちは今、そのように福音を届けて下さったイエス様に対し、どのような応答が出来るでしょうか。
