R7.6.29 京都教区合同礼拝式

題: 「逃れの町る」
聖書の箇所 「民数記35章22~29節 」(旧約P.309)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
22 もし敵意もなく突然人を突き倒し、あるいは悪意なしに何か物を投げつけ、
23 または、人を死なせるほどの石を、よく見ないで人の上に落としてしまい、それによってその人が死んだなら、しかもその人が自分の敵ではなく、害を加えようとしたわけではないなら、
24 会衆は、打ち殺した者と、血の復讐をする者との間を、これらの定めに基づいてさばかなければならない。
25 会衆は、その殺人者を血の復讐をする者の手から救い出し、彼を、逃げ込んだその逃れの町に帰してやらなければならない。彼は、聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。
26 もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、
27 血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない。
28 その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる。
29 これらのことは、あなたがたがどこに住んでも、代々守るべき、あなたがたのさばきの掟となる。

1,【逃れの町】
古代イスラエルでは、殺人を犯した人は、被害者の家族によって殺される復讐が認められていました。しかし、故意にではなく過失によって誰かを死に追いやってしまい、復讐の対象になってしまった人を匿うために「逃れの町」を設けられました。神様は逃れの町によって、憎しみの連鎖が世界を覆っていくことをとどめようと願われました。 故意ではないとはいえ、死に追いやったことは罪です。しかし神様は罪人を贖われるため、私たちの避け所となってくださいます。

2,【逃れの神様】
罪人が逃れの町に駆け込んできたとき、レビ人が両手を広げて迎え入れます。その姿は、両手を広げて十字架に架かられたイエス様の姿に重なります。しかし両者には違いがあります。逃れの町で救われるのは、過失による罪のみですが、イエス様による十字架の死は、故意の罪からも救ってくださいます。 もし私たちが「あの人などいないほうがいい」と思うなら、その思いによって殺害を犯したことにならないでしょうか。十字架のもとに逃れるなら、神様は私たちを憎しみの罪から解放してくださいます。

3,【大祭司の死】
逃れの町に逃れた殺人者は、町から出ることはできません。しかし大祭司の死後に町から出て帰ることが許されます。まるで大祭司が殺人者の罪を身代わりに引き受けて死んだかのようにして、殺人者は罪から赦されて解放されます。 キリスト教会は、この不思議を、イエス様こそがまことの大祭司なのだと理解してきました。イエス様は、罪を償うことができず、ただ逃げるしかない私たちを守り、身代わりの犠牲となってくださいました。イエス様の死によって私たちは赦されて生きることができます。

礼拝メッセージはYouTubeで配信中です。
京都教区合同礼拝メッセージ「逃れの町」民数記35章22-29節 大頭眞一牧師 2025/06/29

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