R3.5.9 主日礼拝

「題」 「主は父の家に臨在される
聖書の箇所 「ルカの福音書2章41~52節」(新約P.112)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
41 さて、イエスの両親は、過越の祭りに毎年エルサレムに行っていた。
42 イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習にしたがって都へ上った。
43 そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、
44 イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、
45 見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。
46 そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。
47 聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。
48 両親は彼を見て驚き、母は言った。「どうしてこんなことをしたのですか。見なさい。お父さんも私も、心配してあなたを捜していたのです。」
49 すると、イエスは両親に言われた。「どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」
50 しかし両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。
51 それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。 
52 イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。

1、イエス様を捜す両親
44~45 節「イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。後になって親族や知人の中を捜し回ったが、見つからなかったので、イエスを捜しながらエルサレムまで引き返した。」
両親がイエス様を見失って捜し回ったように、わたしたちもイエス様がおられないと不安になることがありませんか。両親がイエス様を見失った理由は「一行の中にいるもの」という思い込みでした。わたしたちも思い込みに捕らわれてイエス様を見失っていませんか。

2、イエス様は父の家におられる
49 節「すると、イエスは両親に言われた。『どうしてわたしを捜されたのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。』」
イエス様は両親に「わたしが自分の父の家にいるのは当然」と語られます。新改訳の注釈欄には、別訳「父の者たちの間に」「父のみわざのうちに」と記載されています。「父の家」つまり教会は建物のことではなく、信仰者によりイエス様が臨在され、神様の働きがなされる場所です。

3、イエス様は両親に仕えられる
51 節「それからイエスは一緒に下って行き、ナザレに帰って両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた」
教会堂だけが神様の働きがなされる場所ではありません。イエス様はナザレに帰られ、両親に仕えられました。イエス様はわたしたちの家庭も職場にわたしたち父の者たちを遣わし、ご自身のみわざがなされる父の家としてくださいます。そしてわたしたちを祝福の基とされます。

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