「題」 「人のわざと異なる神の救い」
聖書の箇所 「歴代誌第二32章20~23節」(旧約P.806)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
20 ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。
21 主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。アッシリアの王は恥じて国へ帰り、自分の神の宮に入った。そのとき、自分の身から生まれ出た者たちが、そこで彼を剣にかけて倒した。
22 こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブの手、および、すべての者の手から救って、四方から彼らを守られた。
23 多くの人々が、主へのささげ物やユダの王ヒゼキヤに贈る選りすぐりの品々を携えて、エルサレムに来るようになった。この時以来、ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになった。
1、他の神々とは異なるお方
19 節「彼らは、人の手のわざである、地上の民の神々について語るのと同じように、エルサレムの神について語ったのである。」
アッシリアの王センナケリブはイスラエルの神を侮辱し、他の神々と同じように、ヒゼキヤの神も救い出すことはできないと告げます。私たちは、神様は他の神々とは異なるお方で、人にはできないことも神様はおできになるということを、本当に信じているでしょうか。
2、人のわざと異なる神様の救い
20~21 節「ヒゼキヤ王と、アモツの子、預言者イザヤは、このことについて祈り、天に叫び求めた。主は御使いを遣わして、アッシリアの王の陣営にいたすべての勇士、指揮官、隊長を全滅させた。」
ヒゼキヤ王と預言者イザヤは、イスラエルの神は人のわざと異なる救いをなされるお方と信じ、ひたすら神様に祈ります。祈りによって、私たちは人の手のわざとは異なる神様の力を信じ、救いの道を見ることができるようになります。
3、神様の救いの力
22 節「こうして主は、ヒゼキヤとエルサレムの住民を、アッシリアの王センナケリブの手、および、すべての者から救って、四方から彼らを守られた。」
主はアッシリアの王の陣営を全滅させられただけではありません。王が国に帰った後、センナケリブは自分の息子たちに殺されます。これは帰国から20 年後の出来事です。センナケリブはイスラエルを手中に収めた気でいましたが、実はずっと、彼は神様の御手の内にあったのです。神様はすべてを支配され、どんな者をも救うことのできるお方です。