R4.10.30 天橋立聖会礼拝式

「題」 「主のようにきよくなる」
聖書の箇所 「マルコの福音書1章40~42節」(新約P.67)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
40 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。「お心一つで、私をきよくすることがおできになります。」
41 イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。
42 すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった。

1、聖書から出発する
きよめのために、きよめの体験を求めなさいと語られることがあります。しかし体験は人により、またその時の気分や体調によって違う。体験は不確実なもの。そうではなく、聖書から出発するべき。それも聖書が証ししているイエス・キリストから出発するべき。
特に大切なのは福音書。よくパウロ書簡から語られるが、パウロの手紙は特定の教会の問題に対応するために書かれたもののため、すべての人に適応するわけではない。

2、きよめは神様との関係がきよくされること
きよめの体験が中心とされるとき、「私」という個人が問題となる。それで、きよめのために「私」に何にかが足りないということになる。そうではない。聖書が語るきよめは「関係」の問題。そしてその関係は、私たち人間の努力によってではなく、恵みにより、イエス・キリストの十字架によって変えられ、きよめられている。きよめの中心は「私」ではなく「神様」。

3、神様がきよくしてくださる
41 節「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ、きよくなれ』と言われた。」
イエス様は問題を抱えている私たちを、この世界を、深く愛し、あわれんでくださる。そしてイエス様の心は、私たちとの関係を回復し、人々との間の関係性を回復し、世界を回復されることを定めておられる。自分はダメだと思い、自分を傷つけ、損ねる必要はない。イエス様はいつでも、私たちを愛しておられる。そして私たちの傷に、世界に、神様の愛が注がれることでいやされ、私たちも世界も回復していく。

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