R3.10.31 天橋立聖会礼拝式

「題」 「今、ここにある聖化
聖書の箇所 「ピリピ人への手紙3章12~14節」(新約P.398)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会

12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
13 兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、
14 キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。

1、聖めと体験
聖めの体験がないからといって、「祈りが足りない」「献げられていないものがある」と考えることは間違い。神様は、ひとりひとりにふさわしい、オーダーメイドのご計画をもっておられる。聖めの体験もひとりひとり違う。劇的ではない、ゆるやかで境目のはっきりしない聖めもある。聖めの体験を重視し過ぎると、お互いの違いを受け入れることができなくなる。また、聖めの確信がゆらぎ、不安定になりやすい。

2、聖めは関係性が健やかであること
聖めは神様との関係、人と人との関係が健やかで、曇りがないこと。過去の体験よりも、今ここでどうあるかが問われる。「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(マタイの福音書22 章37、39 節)自分の全存在を尽くして愛することが求められている。それは姿勢の問題でもある。「前のものに向かって身を伸ばし」(ピリピ人への手紙3章13 節)今の自分のできる限りをもって、愛するという前傾姿勢を取るその姿が、聖めの姿。

3、傷は神様の光の入り口
私たちの内に、愛の循環を妨げるものがある。それは「自分はだめな存在だ」という思い。その思いが、愛を受け取ることを拒み、愛の流れをせき止めてしまう。また、「だめだ」という思いは、愛することにおいても臆病になってしまう。だからといって、自分の感情を押し殺すことでは、曇りのない健やかな関係を築くことはできない。傷は神様の光の入り口となる。健やかな関係にあるなら、未熟さも傷も認めて打ち明け、分かち合うことができる。そして聖い共同体が形成される。

天橋立聖会礼拝は、大頭眞一牧師の説教がDVDを通して各教会で開催されました。

 

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