R2.6.7 主日礼拝

「題」 「幸いな人」
聖書の箇所 「マタイによる福音書5章1~12節」
(日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。

5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。

5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 5:12喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

1、幸いな人
3節「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」。
イエス様は「このような人はさいわいになります」と、わたしたちに目指すべき姿を教えられたのではありません。貧しい人、悲しんでいる人、そうした弱い人をイエス様は幸いな人に変えてくださるお方と教えてくださるのです。これが福音です。人の努力によって勝ち得た幸いとは違い、イエス様による幸いは決して取り去られません。

2、キリストの恵みによる幸い
5節「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」。
子ろばに乗ってエルサレムに入城されたイエス様をマタイは「柔和なおかた」と記しています。これは旧約の引用で、神と等しいお方が貧しくなられたという、主のへりくだりの姿を現しています。富んでおられたお方がわたしたちのために貧しくなられた主の恵み
によって、貧しく飢え渇いているわたしたちが幸いな人とされるのです。

3、キリストの心を心とする幸い
8節「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」。
ここでの「清い」は、汚染されていないということです。疑うことを知らない幼子のような心ということもできるでしょう。また、幼子の心は、しばしば平和を作り出すことがあります。この世に汚された心をきよめていただき、主を疑わずに純粋に信じる者となるなら、福音によって平和を作り出す人として用いられます。

 

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