R2.2.9 主日礼拝

「題」 「一粒の麦となられた主」
聖書の箇所 「ヨハネによる福音書12章20~36節」
(日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
12:20 祭で礼拝するために上ってきた人々のうちに、数人のギリシヤ人がいた。
12:21 彼らはガリラヤのベツサイダ出であるピリポのところにきて、「君よ、イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。
12:22 ピリポはアンデレのところに行ってそのことを話し、アンデレとピリポは、イエスのもとに行って伝えた。
12:23 すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。
12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
12:26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
12:27 今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。
12:28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
12:29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。 }
12:31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
12:32
そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
12:33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。
12:34 すると群衆はイエスにむかって言った、「わたしたちは律法によって、キリストはいつまでも生きておいでになるのだ、と聞いていました。それだのに、どうして人の子は上げられねばならないと、言われるのですか。その人の子とは、だれのことですか」。
12:35 そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。
12:36 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。
イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。

1、一粒の麦となられた主
23 節「人の子が栄光を受ける時がきた」。
ヨハネによる福音書では「人の子が栄光を受ける」とは十字架のことを指しています。この世では「栄光を受ける」とは何かを勝ち得て大いなる存在となることと考えられるでしょう。しかしイエス様は一粒の麦となり死ぬことが、栄光を受けることと語られます。

2、一粒の麦
24 節「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
麦は自分の力で実を結ぶのではありません。外からの力を受けて実を結びます。イエス様は十字架で死なれ、墓に葬られました。完全に無力な一粒の麦となられました。そのイエス様を父なる神様はよみがえらされて、イエス様を信じる者を救う道を開かれました。イエス様の十字架の死によって、豊かな実が結ばれるのです。

3、自分の命を愛する者と憎む者
25 節「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」。
ここでは「憎む」という言葉は「愛する」の対比として用いられています。自分の命を憎むということは、自分の命以上に愛するものがあるということです。自分の命以上にわたしたちを愛してくださったお方を自分の命以上に愛するならば、十字架による永遠の命を得られます。自分の命以上のものはないという人は、永遠の命を得られません。

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