H30.10.28主日礼拝

「題」 「キリストの弟子となる
聖書の箇所 「ルカによる福音書14章25~35節
(日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
14:25 大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、
14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。
14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。
14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
14:29 そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、
14:30 『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。
14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。
14:32 もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。
14:33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
14:34 塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。
14:35 土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。

1、何よりもキリストを愛する
 26節「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」。
「捨てて」と訳されていることばは、最近の聖書では「憎まないなら」と訳されています。つまりここでは、家族や自分の命よりもキリストを愛する者であるべきことが語られています。そしてキリストを基とした家族形成、人生設計をするようにということが求められています。

2、自分の十字架を負う
 27節「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない」。
何よりもキリストを愛するべきと理解しても、その思いを自分の力では捨て切れないものです。ですから、わたしはこれを捨てることができませんと、その十字架を負うてキリストの御許に来る者となるべきです。そして、その思いをキリストによってきよめていただきましょう。

3、自分の力を放棄する
 21節「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない」。
わたしたちがキリストを第一として従うため、様々なものを委ね、献げていくとき、最後に残るものが「自分自身」です。
わたしたちは自分の力でなんとかしようとすること、自分の能力という財産を頼ることを完全に放棄して、キリストだけが確かなお方と信頼する者となるべきです。

 

 

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