H29.6.25主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「人をさばくな」
聖書の箇所 「マタイによる福音書7章1~5節」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

1、人をさばくな
1節「人をさばくな、自分がさばかれないためである」。
審判者は神様ただおひとりです。そしてその審判は十字架においてなされました。人をさばくことは、審判者である神様を無視し、十字架の救いを無視することになります。
神様は罪人をも愛し救うお方です。神様の愛に生きることを願い、さばきではなく救いを語るべきです。

2、自分の罪を認める心
3節「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」。
作家の三浦綾子さんが「罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪」と語っています。わたしたちの心には二つの尺度があって、自分の過失は赦せても、他人の過失をなかなか赦すことができません。
罪に心を痛めることは必要です。しかし、自分自身にある罪に心を痛めることなく他人の罪を指摘しても、解決はないのです。

3、罪の救いを求める心
5節「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」。
まず自分自身の罪を認め、救いを求めることをすべきです。罪の赦しを経験した者こそが、隣人を罪の救いに導くことができます。
罪を指摘してさばく者になるのではなく、罪からの救いである十字架を伝える福音の使者となりましょう。

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