H28.11.27主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「すべての人を照らす光」
聖書の箇所 「ヨハネ1:1~18」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
1:6 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。
1:7 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
1:8 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
1:15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
1:16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
1:18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

光であるキリストを信じ受け入れる者は、罪赦され神の子の特権(資格)に与ります。

Ⅰ、「初めにがあった」
 「言」はギリシャ語で「ロゴス」です。宇宙を成り立たせ、これを動かしている法則、原理を意味することばですが。ヨハネは、それをキリストのご人格に当てはめます。神のロゴスであるキリストは「初め」時間が始まる前、人間歴史の始まる前からおられ、「神と共にあった」永遠に存在される神、父の交わりにおられました。「このことばに命があった」キリストを信じる時、命(永遠の命)を受け死から命へ移されます。「この命は、人の光」でした。この光が臨んだとき、「闇はこれに勝たなかった」のです。闇に光が差し込むと、闇は直ちに姿を消し、また、闇は光の中に入ることはできません。

Ⅱ、「光なるキリスト」
「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」とあります。光はものを照らして見えるようにします。光なるキリストにより心の目(霊の目)が開かれ「神」がわかるようになります。キリストは闇の中にいる者に光を与えます。その実例が「罪を赦された姦淫の女」(8・1~11)です。彼女は隠れ行っていた恥ずべき罪を白日のもとにさらされ,恥辱と恐怖に怯えました。神の前に隠しおおせる罪はなく、神はその隠された罪を必ず明らかにされます。闇は光に明らかにされる時が来るのです。女を訴え群衆も闇の中にいました。自分の罪を棚上げし女を責めています。主イエスは彼らに驚くべき言葉を返されました。「自分に罪のない者が、最初にこの女に石を打て」。イエスのことばの光にさらされた群衆は、光に耐え難くなり逃げ隠れるためその場を立ち去りました。その場に残った女に、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。そして、もう2度と罪を犯してはいけない。」(11)と言われたイエスは、彼女のために十字架につかれるのです。キリストの十字架は、今も信じる者の心に、どんな罪をも赦される闇に打ち勝った光として輝いています。そして、闇の中に生きていた者は罪赦されて光となり、光の中に生きる者とされるのです。
「わたしは世の光です。わたしに従って来る者は、闇の中を歩くことなく、命の光を持つ」。

 

 

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