H28.11.6主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「たといそうでなくても」
聖書の箇所 「ダニエル3:8~25」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
3:8 その時、あるカルデヤびとらが進みきて、ユダヤ人をあしざまに訴えた。
3:9 すなわち彼らはネブカデネザル王に言った、「王よ、とこしえに生きながらえられますように。
3:10 王よ、あなたは命令を出して仰せられました。すべて、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞く者は皆、ひれ伏して金の像を拝まなければならない。
3:11 また、だれでもひれ伏して拝まない者はみな、火の燃える炉の中に投げ込まれると。
3:12 ここにあなたが任命して、バビロン州の事務をつかさどらせられているユダヤ人シャデラク、メシャクおよびアベデネゴがおります。王よ、この人々はあなたを尊ばず、あなたの神々にも仕えず、あなたの立てられた金の像をも拝もうとしません」。

3:13 そこでネブカデネザルは怒りかつ憤って、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを連れてこいと命じたので、この人々を王の前に連れてきた。
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
3:19 そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。 3:20またその軍勢の中の力の強い人々を呼んで、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを縛って、彼らを火の燃える炉の中に投げ込めと命じた。
3:21 そこでこの人々は、外套、下着、帽子、その他の衣服のまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。
3:22 王の命令はきびしく、かつ炉は、はなはだしく熱していたので、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを引きつれていった人々は、その火炎に焼き殺された。
3:23 シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
3:24 その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、そのとおりです」。
3:25 王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。

ネブカデネザル王は、自らの権勢を示すため金の巨大な像を造り、すべての人に対し「ひれ伏し拝まなければならない」(3:5)と布告を出し、「拝まない者は、燃える炉に投げ込む」と厳しい罰則を設けました。しかし、ダニエルの3人の友人たちはまことの神に忠誠を示し金の像を拝まず、ついに彼らは燃え盛る炉の中に投げ込まれました。しかし、神は炉の中で彼らを守り、髪の毛一本さえも焦げる事なく助け出されたのです。驚くべき神の救いのわざを見た王は感嘆し、まことの神を賛美するに至ったのです。王の前に語る彼らのことばは、どんな権威も恐れず、自らの死さえ恐れない勇気あるものでした。

1、真に神を畏れる
そうなのです、彼らはみな真剣に神を畏れる者でした。主イエスは、
「からだを子おしても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」(マタイ10:28)
と言われました。真に神を畏れる者は、この世の何ものをも恐れない者とされます。

2、神への全き信頼
神を畏れる者は、神に全く信頼する者です。
「私たちの仕えている神は、・・わたしたちを救い出すことができます。」(17)
彼らは王の前に少しも臆することなく、自分たちの信仰のことばを語りました。彼らの大胆、堂々とした態度は神への全き信頼によるのです。

3、たといそうでなくても
「神は、私たちを救い出すことができます」(17)
と言った彼らは、また
「たといそうでなくても」(18)と言いました。この信仰こそ彼らの信仰、キリスト信仰の本質を言い表わすものです。彼らの神への信頼と忠実は、何か神からの報いを期待してのものではありません。もし、神のみこころが自分たちの願いや祈りと違っていたとしても、それを受け入れなお、神に信頼していくのです。「たといそうでなくても」のことばには、彼らの神への信頼と愛がほとばしっています。なぜなら、彼らの最大の願いは、神のみこころに生き、かつ死ぬことにあったからです。
「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」 (ピリピ1:20~30)

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