H28.10.16主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「ぶどうの木キリスト」
聖書の箇所 「ヨハネ15:1~8」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。

パレスチナで<ぶどうの木>は古代から非常に大切な農産物の一つで、旧約聖書では<イスラエルの民>の象徴として用いられました。父なる神は農夫で、ぶどうの木であるイスラエルの民を選び、恵みを注ぎ、約束の地に植えられたのです。農夫がぶどうの木を植えた目的は、ひとえに実を結ぶことにあります。しかも、甘く豊かな実を結ぶことです。そこに農夫である神様の収穫の喜びがあります。
主は、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(5)と言われ、「わたしこそは、まことの・・」(1、5)という主の言葉の中には、ぶどうの木であった旧約の神の民が、良い実を結ぶことに失敗したことを念頭におき、「わたしこそ、良い実を結ばせるまことのぶどうの木である」との宣言があるのです。主を信じ、主につながる者とされたあなたがた(主の弟子)は、真のぶどうの木に結びつけられた枝であると言われたのです。実を結ぶために農夫がなさることと、わたしたちがなす事があります。

1、取り除く(2)
このことばに「持ち上げる」という意味があります。パレスチナのぶどうは棚ではなく地べたにはわせます。その枝を、棚を造って「持ち上げ」日当たりを良くしてもっと実を結ばせて下さいます。(ルカ13・8)地面に垂れ下がってしまった枝を一本一本持ち上げ養分が回るようにしてくださるのです。

2、刈り込む(2)
「刈込みをする」には、「きよめる」の意味があります。神は私たちの人生に豊かな実を結ばせるため、思い切った刈込をしてきよめられます。価値観を変革し、優先順位を立て直され、第一のことを第一にするようされるのです。

3、とどまる(4)
「枝だけでは実を結べない」とは、全く明快な事実です。キリストを通し神のいのちにつながっていなければ、人生に愛も喜びも平安も実を結ぶことはありません。「とどまる」、「つながる」は、一時的でなく、がっしりした永遠の結合を意味し、この、キリストのことばは、単なるすすめではなく命令なのです。

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