H28.4.3主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「霊の目を開かれて」
聖書の箇所 「ルカ24:13~32」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。
24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
24:19 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。
24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。
24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

甦られた主イエスは、エマオ途上の弟子たちに近づき一緒に歩かれました。
「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることが出来なかった。」(16)
しかし、エマオに着き夕食を共にする中で、主だと分かります。「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。」 「目がさえぎられ」ていたのが「目が開け」たのです。霊の目が開かれ、復活の主が共におられるのを知ることが出来るのです。(1ペテロ 1・8)

1、閉ざされた目
①甦られた主を全く予期していなかった。
②復活のお姿が変貌していた。
③違ったメシヤ思想に捕らわれていた。
④悲しんでいた。彼らは気落ちし失望していました。期待していたことが起こらなかったからです。

2、開かれた目
開かれた目とは、命をもち、希望を持ち、神様がわかるようになることです。 閉ざされた目が、どのようにして開かれたのでしょうか。
①復活の主が、2人の弟子と共に歩いて行かれた
イエス様は2人の弟子たちと共に、エマオまで歩いて下さいました。信仰者として鈍い弟子にずっと付き合って愚痴や失望を聞いてくださいました。主が共にいて下さることは、私たちの救いです。
②交わりを持つこと(28~30)
村に着いて、弟子たちの側から「どうぞ,泊まってください」と「しいて引き止め」、交わりを求めたのです。一緒に食し交わる中で目が開かれ「イエス様だ」とわかりました。交わりは祈りによって得られます。
③みことばによる語りかけ (27)
「こう言って、モーセやすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを解き明かされた。」とあります。2人は「道々お話になったとき、また聖書を解き明かして下さったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」(22)と言い合いました。みことばが語られ、心の内が燃えたのです。私たちの内に真にみことばが語られてくるとき、こころの内が燃える経験をするのです。そのとき、私たちは、目が開かれ、主イエス様がそこにおられることがわかる者とされるのです。

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