H28.1.10主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「十字架を負って従う」
聖書の箇所 「ルカ9:21~27」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
9:21 イエスは彼らを戒め、この事をだれにも言うなと命じ、そして言われた、
9:22 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる」。
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。 9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
9:27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

ペテロの信仰告白→主の十字架の道→主に従う者の負う十字架の道→主の変貌と続く一連の出来事は、主の公生涯の大きな分かれ目でした。ここから主は十字架の道に歩まれます。しかし弟子たちには理解できず怪しみました。ペテロは主の十字架への道に立ちふさがり「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません。」(22)と主を諌めさえしました。

1、信仰告白 (20)
「神のキリストです。」主イエスから、あなたにとってわたしはどのようなものか(20)と聞かれた時「あなたはキリストです。わたしの救い主、生ける神です」と答えることが信仰告白です。神の前の信仰の告白は「個人の信仰」を確立させます。(ローマ10・9-10)

2、主が選び取られた十字架の道(22、28~36)
栄光の姿への変貌は、主イエスの本来のお姿です。モーセとエリヤが現れ主の最後のことについて語られたこの時、主は改めて十字架の道を自ら選ばれました。 (ピリピ2:7~8)

3、十字架の道への招き(23)
 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(24) 十字架は避けることもできます。しかし、十字架の道こそ自分のいのちを獲得する道なのです。(24)十字架を無理に負わされることもあります。十字架を負わされるとき、苦しく恥ずかしめられることがありますが、やがてそれが恵みに変えられ救いにつながっていくのです。
「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っている。」(ピリピ1:29)
十字架は神の恩寵の賜物であり、永遠の命を獲得する方法なのです。
十字架は栄光への唯一の道です。
主の十字架に歩む道は、私たちに栄光が約束されている道、永遠の命を獲得し命に入る唯一の確実な道なのです。
「ノークロス ノークラウン」 (十字架無くば 冠なし)

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