H27.2.15 第2回オープン・チャーチ

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「人間になる
 
聖書の箇所 「ヨハネ3:1~8」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

3:1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。
3:2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。
3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
「Ⅱコリント5:17」
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

1、人間になる
 日本の有名な思想的家であった人が「人間であること と 人間になることは違う」と言いました。「人は動物学的な分類では確かにヒト科・人間であると言えるが、何も自分で決断して人間に生まれてきたのではない。生まれてきたら、犬でもネコでもサルでもなく、たまたま人間だったというだけである。だから、人間はどこかで自覚的に決断して『本来あるべき人間になる』ということが大事だ」と言うのです。 また、太宰治に「人間失格」という有名な著作がありますが、自分を映した作品の主人公をして「わたしは、ついに人間でなくなりました」と、“人間失格”の宣言をさせたと言われます。
「人間である」でなく、「人間になる」ことが大切だと言い、最早「人間でなくなってしまった」と言ったり、どうやら、人間は生まれたままでは、本当の人間ではなく、また、人間の思いと欲望に生きるなら、本来あるべき人間からは、遠くかけ離れてしまう存在のようです。

2、新しく生まれる
 ヨハネによる福音書3章 の中で、イエス・キリストは、「ニコデモ」というユダヤ教の老教師で立派な人物に対して「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。生まれつきの人間のままでは、どんなに努力・修行・悟りをもってしても、神を知り、神の国の世界に入ることは出来ないと言われたのです。そのためには、どうしても「人が新しく生まれる」、「新しく造られる」ことが必要であり、それは、ただ神の恵みと力によってなされるのです。ここに、真に「人間になる」ことができる世界が神の恵みと力によって開かれました。

3、使徒パウロの経験 (ローマ6章)
 「だれでも キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてがあたらしくなりました」。(2コリント5:17)キリストにより罪が赦され、神の前に義とされ、神に受け入れられ愛されている自分を見いだす時、人は本当に「人間らしい人間にならせていただいた」という実感を持つのです。

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。 Ⅱコリント5:17

プログラム 時間 音声
Ⅰ、賛美歌を歌おう    
 (1)♪505:主われを愛す 3:30
 (2)♪何だか素晴らしい事が

3:24

 (3)♪スピリット・ソング

5:36

 (4)私の信仰紹介 5:29
 (5)主の祈り 0:52

Ⅱ、聖書のお話し

ヨハネ3:1~8
Ⅱコリント5:17

2:16

人間になる

10:00

10:00

10:00

13:00

 8:18

 (2)賛美266: 罪咎ゆるされ 2:34
(3)感謝献金 1:44
 (4)賛美165:栄光イエスにあれ
 (5)祝福の祈り
1:19

 

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