H26.6.1主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「我は聖なる教会を信ず」
聖書の箇所 「マタイ16:15~18」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。 16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 「教会」と言う時、何を連想するでしょうか。教会の定義と権威はマタイのキリストのことばに由来します。(マタイ16:19) 主はご自身の権威を弟子のペテロに託されました。(マタイ16:18) カトリック教会は、この権威がペテロから司教や教皇へと継承されたと解釈します。しかし、それは、ペテロの信仰告白にならう<信仰者の群れ>であるとプロテスタント教会は理解します。教会とは主を告白する私たちのことです。

1、主を告白する
 主がピリポ・カイザリヤ地方を訪れたとき、弟子たちに一つの質問「世の人々は、わたしのことをだれだと言っているか」をされました。この質問は今も同じで、キリストについて様々な答えが世に出ており、その切り口や角度は様々で、一番解釈が分かれるのは「キリストはだれなのか」ということです。人々は様々に答えます。(14)
主は、黙って聞いておられ、そして、弟子たちに尋ねられます。「では、あなたがたは、わたしをだれと言いますか。」(15) これこそ主が問われることで、問われているのは主の弟子たちです。その応答を正しく可能にするのは人間の洞察力でなく聖霊の力です。そして、私たちが「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白する時、それは真実なもの、私たちの生涯や生き方、価値観を貫く告白であり、中途半端であってはなりません。

2、主を告白する教会は、ハデスの門にも打ち勝つ(16:18)
 ハデスとは、死者の行く所、死の力が支配するところです。私たちの人生を脅かすさまざまな苦しみ悲しみ、その究極的なものが死です。その死の支配、ハデスの門でさえ教会には対抗できません。なぜでしょう。それは教会に特別に力がある、教会に集う人々が立派だからではありません。それは教会が、生ける神の子、救い主である主イエス・キリストを信じる信仰を告白する群れだからです。私たちの罪のために十字架に架り、私たちの罪深さの究極の報いである死を打破って復活された、私たちに永遠の命を授けてくださった、救い主イエスを信じる信仰を告白する群れは、死の支配をものともしないのです。

わたしは この岩の上に わたしの教会を 建てよう。  マタイ16:18

プログラム 時間 音声
前奏 0:31
賛美:天地(あめつち)こぞりて

0:42

交読:16 詩篇42 2:00
主の祈り 0:52
使徒信条 1:10
賛美138: よろずのもの 2:28
聖書 マタイ16:15~18 1:00
賛美146: 昔主イエスの 3:01

説教:我は聖なる教会を信ず

10:00

10:00

10:00

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10:00

11:11

 






聖餐式:49 しみも咎も 3:13
賛美143: いとも尊き 3:01
感謝の祈り 1:26
頌栄63: 父御子御霊の 1:39

 

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