H26.5.11主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「我は聖霊を信ず」
聖書の箇所 「ヨハネ7:37
~39」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

 それは、「仮庵の祭り」が、エルサレムで祝われていたときのことです。人々は、先祖を荒野で生かしてくださった神の恵みを感謝し、やがて、神殿から流れ出るいのちの水がすべてのものを生かすというエゼキエルの預言の成就を待ち望んで祭りを祝いました。その時、イエスは祭りのにぎわいの只中に立って大声で叫ばれました。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

1、たましいの癒されない渇き
 イエスは、祭りに来ている人々の心の内に深い渇きがあることを見抜かれました。神殿の祭壇に注がれる水は、単なる水です。それで心の渇きはいやされません。つまり、伝統の祭りや儀式に意義はあってもいのちはなく、人の心の深い渇きをいやすことはできません。<渇き>は人の肉体にとって最も強烈な欲求です。人には、いのちの水に対する切実な霊的渇きがあるのです。私たちは、教会に来て神を礼拝しながら、果たして生ける水を飲んでいるのでしょうか。イエスは、今も私たちの礼拝の真中に立ち、「だれでも渇いているなら、いつもわたしのところに来て、飲みなさい!」と言われます。今、聖霊に満たされ生きるように、そう主は願って呼びかけておられます。

2、いのち溢れる礼拝をささげよう
 いのち溢れる礼拝とは、聖霊が働かれいのちの水が流れ出る礼拝です。そのためには、まず「渇き」があることが大切です。イエスはその渇きを喜び、その渇きに応えていのちの水(聖霊)を注いでくださるのです。(ヨハネ7:39)

3、聖霊と私たちの関係
 聖霊と自分とのかかわりは、どうでしょうか。生ける水が、自分の心の内側から溢れてこないのはなぜ? それは、主よ、主よと言いながら、常に聖霊を脇に押しやり、自分が心の王座を占めているからです。神である御霊を脇に退け、ふんぞり返っている肉的な自分がいるのです。しかし、がっかりしたり、あきらめたりするのでなく、真剣に悔い改め、自分の人生の主体はキリスト、ご聖霊であると認め、キリストとご聖霊に、自分と人生の主体をきっぱり明け渡すのです。 その時、いのちの水が流れ出します。

だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。   ヨハネ7:37、38

プログラム 時間 音声
前奏 0:28

賛美:天地(あめつち)こぞりて

0:44

交読:14 詩篇37 1:26

主の祈り 0:51

使徒信条 1:10

賛美41: み言葉をください 2:09

聖書 ヨハネ7:37~39 0:48

賛美135: 御霊は天より 2:54

説教:我は聖霊を信ず

10:00

10:00

10:00

10:00

10:00

12:30

 

賛美136: 御霊よ降りて 3:25

感謝の祈り 2:21

頌栄63: 父御子御霊の 1:35

 

 

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