H26.3.9主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「我は十字架のキリストを信ず」
聖書の箇所  「ヨハネ 19:28~30、イザヤ 53:3~5」
 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
ヨハネの福音書
19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
19:29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

イザヤ
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
 

使徒信条は「十字架」まで来て、キリスト教の中心、いわば“神の至聖所”に入ります。
1、「ポンテオ・ピラトのもとに」
 使徒信条で、 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」ということばの重要性は見逃せません。この一文でキリストの歴史性が告白されています。私たちが命を賭けて告白するのは、歴史的な十字架の出来事です。ローマのユダヤ総督であったピラトが下した判決によって十字架に架けられたイエス・キリストの出来事にキリスト教信仰のすべてがかかっています。神の御前に徹底して堕落している罪人の私たちが、どんなに頑張っても救いの根拠にはなり得ません。私たちの救いの根拠は、動かすことができず、認めざるを得ない歴史的出来事、確かな客観的事実にあるのです。それが、 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」のことばに込められています。
2、「苦しみを受け」
 キリストの受けられた苦しみを 「受難」と言います。主イエスは、自分を待ち受ける運命が“受難”であることを繰り返し予告されました。(マルコ8:31、9:31、10・32~34) 「引き渡され」とは”されるがまま”という意味です。神の御性質を持ち、神の権威をもって軌跡を行う方が、全く抵抗せず、ロを開かず、されるがまま十字架にかかりました。ユダヤ人法廷に 「引き渡され」 、ローマ総督に 「引き渡され」 、ローマ兵に 「引き渡され」 、最後は十字架の死に 「引き渡され」ました。しかし、その姿は無力そのものに見えても、必ずしも無力にされるままではありません。 「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。」(ヨハネ10:18)とは不思議なことばです。十字架の上に苦しみ、もがくだけの生か、まるでこれが最後の最大の仕事であるかのように 「完了した」 (30)と言われたのです。それは、神が、罪を犯して滅びに落ちてしまった人間を救うという、救いのご計画をついに完成させた瞬聞だったのです。(マルコ10:15)

イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息を引きとられた。ヨハネ19:30

プログラム 時間 音声
前奏 0:40

賛美:天地(あめつち)こぞりて

0:43

交読8: 詩篇24篇 1:21

主の祈り 0:53

使徒信条 1:14

賛美17: 主をほめよわが心 3:14

聖書 ヨハネ 19:28~30 0:40

賛美108: 丘に立てる荒削りの 4:13

説教:
我は十字架のキリストを信ず

10:00

10:00

10:00

10:00

10:00

 8:48

賛美112: カルバリ山の十字架 3:03

頌栄63: 父御子御霊の 1:30

 

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