H25.11.3主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「失望しないで祈る」
聖書の箇所  「ルカ18:9~14」 
(日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

このたとえに、パリサイ人と取税人の2人の人物がでてきます。
1、パリサイ人の祈り
 パリサイ人は、当時のユダヤ宗教社会で指導者でした。彼の行いは手ぬかりなく大変立派です。しかし、彼は神様の前に出るのに自
分を飾っています。鎧をつけ、行き過ぎた自己防衛をしている人間の姿を見ます。だれもが自己防衛をしているところがあります。しかし、それを砕き、ありのままの姿をささげることが本当の礼拝、神様を信じた生活です。創世記3章で、アダムが罪を犯したとき、神はどうして戒めを破ったのかと問われました。するとアダムは、「あの女が・・・」と責任転嫁をし、自己防衛をしました。そして、わたしは悪くないと言い張るのです。人間は罪を犯して以来、自己防衛をします。人を批判し、自分を守ろうとし、木の葉で自分の恥を隠そうとするのです。パリサイ人の葉は、彼の善い行いです。善い行いが律法的となりクリスチャン生活を縛り付けるのです。 しかしその必要はないのだとイエス様は言われます。

2、取税人の祈り
 彼は自分の罪を深刻に告白しています。「神様、わたしは罪人です。どうぞ、わたしの罪をお赦しください。」と祈れば、救われます。良い
人になり、物事のどおりが分かり、立派な人になれば救われるということではあ吊ません。罪の問題だけでなく、祈りは、「私には欠けがあります」、「弱さがあります」とありのまま神様に申し上げることなのです。自分には欠けがあることを自覚し、弱い者であるから折れるのですご自分の弱さを自覚し認める時、主はその欠けを埋めてくださいます。取税人は欠けだらけですと言いました。その時、神様は彼を受け止めてくださいました。自分を縛る自己防衛はいりません。
「わたしの力は弱いところに完全に現れる」2コリント12:9
 

神様、罪人のわたしを おゆるしください。  ルカ18:13
プログラム 時間 音声
前奏 0:41
賛美:天地(あめつち)こぞりて

0:45

交読37: 詩篇119篇 2:12
主の祈り 0:56
使徒信条 1:12
賛美138: よろずのもの 2:25
聖書 ルカ 18:9~14 1:12
賛美349: 移り行くときの間も 2:38
説教:義とされる道

10:06

10:04

10:02

10:02

10:00

 8:17






正餐式(賛美49: しみも咎も) 3:32
賛美359: 罪深きこの身を 3:26
頌栄63: 父御子御霊の 1:42

 

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