H25.3.17 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「十字架上での祈り」
聖書の箇所  ルカ23 : 32~38」
 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
23:32 さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。
23:33
されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。
23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
23:35
民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、「彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい」。
23:36
兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、
23:37 「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。
23:38 イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。

 主が十字架で発せられた7つのことばは“7つの窓”であると言われる。主イエスの臨終の心境、主が十字架に架って苦しみながら死んで行かれるその時の“心の宮の内側”をのぞき見る窓である。そこには人類の救いを成し遂げられた神の心と過程が表れている。 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。 これは十字架から聞こえてきた、最初の言葉である。

1、「彼ら」と誰のことか
 それは、直接には主を十字架につけた人々を指す。ローマ兵、民衆、祭司長やユダヤの長老、ピラトもそうである。彼らはイエスを憎み、苦しめ、辱しめ、あらゆることをしてイエスを直接殺そうとし加担した者たち。しかし、間接的には神に逆らう生き方をしているすべての罪人、人間を指している。

2、主は彼らを憎まず恨まず、罪の赦しを祈られた
 主はかつて 「敵を愛せよ」(マタイ5:44) と教えられたが、今や十字架の御苦しみの中でそれを実践された。ただ赦すことでも困難なのに、自分を十字架につけて殺そうとする敵を赦された。これ以上大きな愛、深い愛があるだろうか。これは愛敵の祈りであり、神の祈りである。自己愛を内に持ちエゴに生きるしかない人間にこの祈りはできない。この祈りをささげたイエスこそ神であられた。百卒長はそれを証言している。(マルコ15:39)

3、赦しを祈られた理由 「彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」
 彼らはイエスを十字架にかけたことがどんなに恐ろしい罪であるかを知らない。「愚かな者は、戯れごとのように悪を行う」(箴言10:23) 知らずして罪を犯す人々への深い同情が表されている。しかし、知らずに行う罪ほど恐ろしいものはない。人が何をしているのかわからないという状態は、人間の真の罪の姿を表す。私たちも、自分で正しいと思って自分を主張することに熱狂しているが、実は、しばしば何をしているかわからずにやっているのだ。自己を知り、敵をも赦す主の愛の祈りに己を委ねよう。

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」 ルカ23:34
プログラム 時間 音声
前奏 0:27
賛美:天地(あめつち)こぞりて 0:46
交読12: 詩篇33篇 1:24
主の祈り 0:55
賛美20: 主の真実はくしきかな 3:02
聖書 ルカ23 : 32~38 1:10
賛美110:都の外なる 3:19
説教:十字架上での祈り

10:07

10:11

10:02

10:06

12:37

賛美117: 栄の主イエスの 2:32
頌栄63: 父御子御霊の 1:29

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