加茂勇太郎兄:洗礼式

2012年4月22(日) 加茂勇太郎兄:洗礼式
主のバプテスマに与(あずか)り、キリストのみ体に加えられた加茂勇太郎兄を心から感謝し、喜びを持って私たちの教会家族の中にお迎えしましょう。加茂勇太郎兄の信仰と教会生活の祝福がありますよう、皆さんお祈りください。
 また、私たち一人一人のクリスチャンが彼の洗礼から祝福を受けそれぞれの信仰に立ち返り、信仰を新たに持てますことを感謝します。

洗礼式
賛美:わが君イエスよ 3:45
式辞 7:49
賛美:しみも咎も1,3 1:14
信仰告白 12:51
6:25
賛美:しみも咎も4,5 1:11
誓約 4:47
感謝の祈り 0:46

信仰告白
加茂 勇太郎

私は、メビウス症候群という障がいを持って生まれました。この障がいは、顔面神経麻痺があることと、手足の筋肉が未発達のままであることと、どもりなどの言語障害が重なる症候群で、世界中で見ても希な病気であるとのことです。幼い頃から周りより身体能力で劣っている自分が気になり、無意識に何か人より優れた能力を身につけようと思っていたように思います。その結果のめり込んだのが、パソコンでした。パソコンは、自分が入力した命令通りに処理を行い、その結果を正確に出力してくれます。このパソコンを思い通りに操っている間は、まるで自分が万能になったかのように思えました。
やがて中学校を卒業し、もっとコンピュータを学ぼうと思い、高専に入学しました。高専でどんどん知識を得て、私のパソコンに関する知識は増えていく一方でした。周りからも評価され、自分は有能で特別な人間であると過信していました。やがて5年生になり、卒業研究に取り組むこととなりました。卒業研究では、実験機器を使った実験が必要でした。実験を行うには、体力と精密さと正確さが必要となります。夜中まで続く実験に耐えることができず、毎日泣いてばかりでした。泣きながら、自分の体力の無さを恨み、このような体で生まれてきた自分を憎んだりもしました。自分に自信が持てず、ただ怒られないようにすることしかできませんでした。もしかしたら、自分はいらない存在ではないのか。自分はただのお荷物ではないのか。そんなことばかり考えていました。
そんなときに、私はイエス様に出会いました。2011年9月18日、学会の帰りに丹下先生に連れて行ってもらった放出教会です。初めての教会で、説教を聞いて賛美歌を歌った時、言葉には言い表せないものを感じました。とにかく、教会に続けて足を運んでみよう。そうしたら、現状が何か変わるかも知れない。そう思いました。舞鶴福音教会に通い始めてから一ヶ月ほど経ってから、牧師先生と聖書の学びを始めました。学びの中で、私は聖書のいくつかの御言葉が、不思議でなりませんでした。まず私が疑問に思ったのは
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」 ローマ3:23
という御言葉でした。一体、自分が何の罪を犯したのか・・・。アダムとイブの原罪は知っているけど、果たしてそれと自分とが何の関係があるのか。自分だったら、神様から「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、きっと死ぬであろう」創世記3章16-17節 と言われた果実を食べたりはしない。アダムとイブはとんでもないことをしたのだと、彼らをさばいたことを覚えています。自分は罪人ではないと頑なに思っていました。
学びの際に、聖書の御言葉を一つでも実践してみると罪について分かると教わったので、私は目に入ったルカの福音書6章37節の御言葉
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」を実践してみようとしました。しかし、実生活でこれを実践しようと思えば思うほど、自分は常に人をさばいていることが示されました。例えば、寮で相部屋になっている人が、私が勉強をしている時に遊んでいるのを見て「彼は私が勉強をしているのが見えないのか。彼は私の邪魔をする奴だ」と思ったりしました。さばいてはいけないと知っていながら、自分はそれができない事に気がつき、それによって自分の罪を知りました。
自分の罪を知ってから、イエス様がその罪のあがない主であることを信じるまでには、もうしばらくかかりました。自分はこの御言葉は実践できなかったけど、他の御言葉は実践できるのではないかと色々試してみました。しかし、結果はすべて完璧に実践することができませんでした。私の心の中では、御言葉通りに行動したいと思っているのに、それができなかったのです。
「ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです」というローマ書7章17節を読んだとき、私は一方的な罪の赦しなしに、この自分の罪深さから来るむなしさをぬぐい去ることはできないと確信しました。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」 ローマ書24-25節
この御言葉を読んだ後、私は悔い改めのためのお祈りをしました。そして、そのお祈りに、主はこう答えてくださいました。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」ルカによる福音書23章34節
すべては赦された。心の平安が、私に訪れました。こうして、私はイエス様を救い主として受け入れ、救われました。
人は誰でも、誰かに愛されていないと生きていけないと思います。肉による愛は、その人の能力や働きによって変わってしまう変動的なものです。私は長い間、この変動的な愛を獲得するために心を迷わせていました。しかし、今は友のために命を捨てた主イエスキリストの愛が私を包んでいます。もう、迷うことはありません。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」 ヨハネ3:16
神様は、暗闇の中にいる私を、光の中へ連れ戻してくださいました。今後も、様々な闘いが待ち受けていると思います。しかし、「わたしはあなたと共にいる」とも言ってくださいました。
「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない。わたしはあなたの神である」 イザヤ書41章10節
これからは、教会の一員として「一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い」たいことを、主イエスキリストの御名によって告白します。

 

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