H24.4.15 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
(・聖書をもっておられる方は、今日の聖書の箇所を開いて 読んでください。)
「題」        「幸いな人
「聖書の箇所」  マタイ 5:1~12

 「人として生きる者の共通の求めは、幸せである。」(ヒルティ)人はこの世の生まれ、生きて、誰もが幸いになりたいと願います。しかし、「私は幸いです」という人はそう多くないかもしれません。私たちが幸せを求めつつ、それを実感できないとしたら、その理由は2つあると考えられます。
①「幸い」そのものについて 考え違いをしている。
②「幸い」を得る方法が 間違っている。
 旧約聖書の幸いは、一般的に即物的です。物質的な富、健康、多産が霊的祝福の証とみなされました。ヨブの忍耐の報いは繁栄の2倍返しです。(ヨブ42:10)、アブラハム、ソロモンも神の祝福としての豊かな富を受けました。しかし、旧約聖書はまた信仰的、霊的な幸いも語ります。
・義なるものの幸い。(詩1:1)
・罪の赦しの幸い。(詩32:1~2)

1、イエス・キリストの幸い (マタイ5:1~12)
 人として生きる者の共通の求めが幸せであることを誰よりもよく知っておられるイエスは、人々の幸せを願いながら、どうあることが幸せなのかを明らかにされました。それが山の上の教えの冒頭に出てきます。 これは天国の律法と言われ、その内容は、地上的ではなくきわめて天的なものです。地上にあって、信仰によってとらえるべき霊的、信仰的な幸いであり、この世の幸いとは全く異なっています。
 それは、一時的ではなく永続的、永遠的です。表面的ではなく内容的、内実的です。物質的ではなく霊的、信仰的です。そして、地上的ではなく天国的なものです。本当の幸福は、この地上でのめぐりあわせではなく、永遠の天の御国で握る永遠の幸福の保証にあります。それを、今、この地上の生活の中でつかんでおくということです。たとえ、今は貧しくされ、悲しみを味あわされ,心砕かれ、義に飢えていても、もし永遠の幸福を得る神との友好関係に入ることが出来るなら、それこそ、真の幸いと言わねばなりません。

2、心の清い人の幸い (8)
 「清い」ということは、道徳的、宗教的に清いという意味ではなく、
「心がいさぎよい」・・ということです。(詩編24:4、5)
それは、「むなしい事に」こころが二股をかけないことで、一心に神を求める人を意味します。(ヤコブ4:8)
この清さを保つなら、私たちは神を見ると約束されています。やがて、主の前に出る時、私たちはその約束の素晴らしい報いを得るのです。(1ヨハネ3:2~3)
また、日ごろ、一心に神を求め、神を見つめて生きるなら、私たちの状況の中に働いておられる神を見いだすことができるのです。神の臨在を実感しながら生活できることは、なんと心強いことでしょうか。

聖書 「マタイ:5章1節~12節」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

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