H23.11.20 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
(・聖書をもっておられる方は、今日の聖書の箇所を開いて 読んでください。)
「題」        「神の栄光を見る信仰」 
「聖書の箇所」  ヨハネ11:17~44

主イエスは、死んで墓に葬られその遺体がすでに4日間も墓の中に置かれているラザロについて、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と宣言され、墓の中からラザロをよみがえらされました。
これは、イエスが行われた奇跡中で最大です。死後4日経つ死人を墓からよみがえらされた出来事は、人間の死に対する圧倒的な神の勝利でした。

1、主の遅れ、死と葬り・・・動かし難い現実 17~29
 死と葬り、墓に葬られ4日が経過・・これらのことはラザロに関して、人間的な望みはもはやなく、希望は完全に失せたということです。祈って信じて、主の到着を確信して待っていたマルタとマリヤでしたが、主の到着はラザロが死んでしまってからでした。主は、遅れてしまわれたのです。「主よ、もしあなたがここにいてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」と、ついことばが出てしまいました。
これに対し、イエスは「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」と言われました。しかし、マルタにはこの期に及んでイエスがなさろうとすることなど、信じることも期待することも出来ませんでした。それは、彼女の心が深い失望に支配されていたからです。かつての信仰の苦い経験や失望感は、主のおことばをしっかり受け止めることを妨げてしまいます。

2、死からのよみがえり (30~44)
 しかし、実はこの遅れこそ、イエスの初めからのご計画だったのです。主の栄光が圧倒的に現わされる背景となるのです。墓に葬られて4日を経過して肉体が朽ち始めている死人が一瞬にしてよみがええることなど、聞いたことがありませんし、ありえません。しかし、ここにこそ圧倒的な神のわざが現されるのです。「わたしはよみがえりであり、命である。」と言われた神のわざです。その時、死が、朽ち果てる肉体が、復活の命にのまれてしまうのです。「死は勝利にのまれてしまった。」(1コリント15:55)
私たちの周囲の現実や状況、思いや願いを遥かに超えたところで、神様のみわざが計画されているのです。私たちの祈りがなかなか聞かれないと思われる時、願いとは違う結果が現れた時、私たちは恐れたり、失望したりする必要はありません。私たちの思いを超えたところで、神はご自分の御業を進めておられるのです。そして、現実の悲惨な状況さえも神ご自身の栄光がいかんなく現わされる機会となるのです。
「もし信じるなら、神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか。」
今、よみがえりであり命である主を仰ぎ信じましょう。

 

礼拝式: 「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたがたに言ったではないか。」 ヨハネ11:40
プログラム 時間 音声
前奏 0:29

賛美:天地こぞりて 0:48

交読:詩篇136篇 1:21

賛美:主の真実は 3:11

聖書:ヨハネ11章17節~44節 4:14

賛美:威光・尊厳・栄誉 2:35

説教 55:35
(約2分)

賛美:疑い憂いに 2:10

頌栄:父御子御霊の 1:24

 

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