H23.10.16 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
(・聖書をもっておられる方は、今日の聖書の箇所を開いて 読んでください。)
「題」        「仕える生き方を身につける」 

「聖書の箇所」  マルコ 10:35~45
 イエスご自身が三度目の十字架の予告をされたとき、弟子たちは主が栄光をお受けになる日が近いと直感しました。その時、イェスのもとにヤコブとヨハネが来て主が栄光の座に就かれるとき、自分たちをその左右に着かせて欲しいと願いました。
彼らが熱心に求めているものは人を押しのけてまでも、自分たちが栄光の地位に就くという妄想、野心です。イエスご自身が目指しておられる十字架の道とはかけ離れています。
「あなた方は自分が何を求めているのか、わかっていない」と言われました。

1、弟子たちの願っていたこと
 ヤコブとヨハネのことを聞いた他の弟子たちは憤慨しました。彼らもまた同じような願いを持っていたからです。彼らにとってイエスの
み心が何か、イエスが何を願い目指しておられるかについては無頓着でした。人が何を求め願っているかが、その人の生き方を決めてしまいます。主のみ心を求めているか、自分の思いと欲のままを求めているのか、その人の信仰と品性に影響します。
2、弟子たちの目指すべきこと
 イエスは、弟子全員を呼び寄せ語られました。主イエスは、偉くなりたいと志すことを否定されたのでなく、神の国の地位や報いを否定されるのでもありません。 しかし、主の弟子たちの生きる神の国と、この世の国では、「偉くなる」ことの意味が全く違います。神の国の真の王として来られたイエスは仕える者、しもべの姿を取って来られ、十字架の死に至るまで歩まれました。まさに、十字架がイエスの王座であり、いばらの冠がイエスの王冠であったのです。イエスのこの奉仕と犠牲により救われた主の弟子は、この世と違う神の国の支配原理に生きる
のです。
3、弟子たちに備えられた道
 それはキリストの苦難と死に与ることです。弟子たちは、後にみな殉教の死を遂げました。神の恵みが彼らを変えたのです。
「あなたがたは、キリストを信じることだけでなくキリストのために苦しむことをも賜っているのです。」(ピリ1:29)

名言:
人生は飲んだ葡萄酒の量によって計られず、注ぎ出した葡萄酒の量によって計られる。

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