H23.10.02 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
(・聖書をもっておられる方は、今日の聖書の箇所を開いて 読んでください。)「題」        「不信仰を取り除く」 
「聖書の箇所」  マルコ9:14~29
神が喜ばれ、求められるものは、信仰です。(へブル11:2)
主は、カナンの女性の信仰を「見あげたものです」とほめられました(マタイ15:28)が、今の箇所では、人々の不信仰をご覧になり、深く嘆かれました。(19)
1、 不信仰な光景
山上で神の栄光を現されたイエスは、再び山を下られました。そこでは、群衆に囲まれて弟子たちと律法学者たちが論じ合っており、そばに弟子たちが癒せな
かった悪霊に苦しむ子供が、放置されていました。この光景にイエスは、「ああ何という不信仰な世か・・」と慨嘆されました。いつの時代でも、世の不信では
なく、主の弟子たちの不信仰こそ、主の嘆きの一番の理由です。
2、無力な弟子たち
何を論じているのか」とイエスが尋ねられると、父親が「願ったのですが・・できませんでした。」と悲しそうに答えました。弟子たちは自信をもって行ったの
ですが、以前と違って(6:7)全く無力でした。その理由は彼らの不信仰が原因でした。しかも、自分たちに信仰が無いことにさえ気づいていません。不信仰
は主の弟子を無力にし、無益な議論を引き起こします。
3、   不信仰を取り除く
父親は「できますれば・・」と願いましたが、イエスは「信じる者には、どんなことでもでる」と言われました。これが信仰です。父親は、はっとして目覚めた者のように
「信じます。不信仰なわたしを、お助けください!」と叫びました。
これは、決して矛盾した告白ではありません。「不信仰なわたし」を徹底的に自覚させられ、「信じます」とイエスに対する信仰を告白したのです。
自己の無力と不信仰、主への絶対的信頼を言い表しました。これが主が導かれる信仰です。後に、弟子たちが、自分たちの無力の理由を尋ねると、それは「祈り」であると言われました。(29)弟子とイエスの違いは、「わたしは神だから・・」ではなく、「わたしは祈っているから・・」でした。
イエスは祈られました!
自分の無力と不信仰を破るため、どうしても、まず、自分から祈りださなければなりません。

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