H26.4.20主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「今、生きておられる主」
聖書の箇所  「ルカ24:1~12」
 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
24:2 ところが、石が墓からころがしてあるので、
24:3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
24:4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
24:5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。
24:8 そこで女たちはその言葉を思い出し、
24:9 墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。
24:10 この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11 ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。
24:12 ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。

「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」(5) イースターの朝、私たちが聞くべきメッセージは、「あのお方は復活なさって、ここにはおられない」(6)という決定的な知らせです。

1、墓にむかう人生
 土曜安息日が終わり、女たちはイエスの死体に油を塗るため日曜の明け方、墓へと急ぎました。このことはきわめて暗示的です。つまり、この世の営みのすべては、墓に向かっていく人生であるということです。この日の女たちの行動は愛する主への精一杯の愛情の表現です。しかし、墓に赴き、死体に香料を塗り、なきがらを丁重に扱うことは、それ以上のものでなく、愛する者の追慕を深めるだけです。私たちが墓参をすることも、故人への追憶、感謝を思い巡らす以上のことではありません。私たちはこの女性たちの行動を通し、果たして自分は今、どこに向かい何に向かって進んでいるのかを考えましょう。ただ、結局は墓に向かうだけの人生なのか、それとも、その墓を突き破り、乗り越える希望を持つことができるのか・・。

2、墓を突き破るもの
 私たちの人生の終着場であるこの「墓」を打破るものはあるのか、という大きな問いです。女たちが墓に着くと、驚いたことに墓をふさぐ大きな石が、転がされ、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(6)との御告げを聞いたのです。人間の常識や理性経験では納得できない信じられない事でした。しかし、ここに聖書が語る最も大切な復活のメッセージがあります。キリストは復活した、死から甦られたということをしっかり聞き取ることです。「あの方は、復活をなさって、ここにはおられない」とは、空虚な墓から響いてきた明確なメッセージです。キリストの復活を信じることは、私たちが今一度、空虚な墓の中に入って見て、手でさわって確かめることではありません。「イエスは復活なさった。ここにはおられない」というメッセージを聞き、信じ受け取ることなのです。

父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください。       ルカ22:42

プログラム 時間 音声
前奏 0:42
賛美:天地(あめつち)こぞりて

0:44

交読:58 1コリント15章 2:28
主の祈り 0:57
使徒信条 1:16
賛美24: 聖なるわれらの主 2:15
聖書 ルカ24:1~12 2:16
賛美127: 墓の中に 2:23

説教:今、生きておられる主

10:00

10:00

10:00

 9:54

12:02

 





賛美257: リストは生きておられる 3:21
感謝の祈り 1:20
頌栄63: 父御子御霊の 1:36

 

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