「題」 「主はいつも共にいます」
聖書の箇所 「マタイの福音書28章16~20節」(新約P.64)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。
17 そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。
18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。
19 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国くにの人ひと々びとを弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、
20 わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
1、疑う者たちもいた
16~17 節「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登った。そしてイエスに会って礼拝した。ただし、疑う者たちもいた。」
「疑う」は「ためらう」という意味もあります。罪のゆるしを完全に信じ切れず、疑い、イエス様を礼拝することをためらう思いが、弟子たちの中にもあったのかもしれません。そのような弟子たちに確信を与え、遣わされるため、イエス様は礼拝に招いてくださいます。
2、イエス様は近づいてくださる
18 節「イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。』」
弟子たちの疑い、ためらいは、十字架にかかられるイエス様を見捨てて逃げ出したことにあるでしょう。しかし、そうした弱さや傷のある弟子たちにイエス様は近づかれます。そして自らの権威によって関係の修復を与え、救いの確信を与えてくださいます。
3、イエス様はいつも共におられる
19~20 節「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
バプテスマの意味は、イエス様とひとつにされるということです。イエス様は見捨てて逃げ出した者、疑う者を救い、ひとつとなられます。「わたしは…います」はエゴーエイミ「わたしはある」(出エジプト3章14 節)です。裏切りも死も覆すことのできる権威によって、イエス様はいつもわたしたちと共にいてくださるのです。