R1.8.25主日礼拝

「題」 「悔い改めのチャンス」
聖書の箇所 「ルカによる福音書13章1~9節 」
(日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

13:1 ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。
13:2 そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。
13:3 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。
13:4 また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。
13:5 あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。
13:6 それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。
13:7 そこで園丁に言った、『わたしは三年間も実を求めて、このいちじくの木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒してしまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか』。
13:8 すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。
13:9 それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』」。
人生を振り返り、折角の機会を失いたくなかったことがあるでしょう。
Ⅰ.因果応報
①悲惨な出来事。「ちょうどその時」(1)とは、裁く神の前に立つ備えを主が話していた時です(12:49~59)。残虐なピラトにより、ユダヤ人が神殿で礼拝をしている場で殺されたことが、主に伝えられました。
②神の裁きか。直前に神の裁きと罰の話を聞いた者は、災難の遭遇者は敬虔な礼拝中でも罪深く神の罰を受けたと考えました。全ては神の支配下にあり、物事に原因と結果があるとの合理的な因果応報の考えです。
Ⅱ.主の答え
①応報思想の否定(3,5。ヨハネ9:2~3)。因果応報の思想は人の心に普通にあります。災害を受けると罪深く罰を受けたと考え、自分で納得できないと神を責め、自分の身に及ぶと自分の正しさに立つのです。
②苦しみの原因追及。主も聖書も苦難の解決や救われない理由や原因を示さないで、歩むべき道は悔い改めることですと語ります(3,5)。
Ⅲ.真の悔い改め
①悔い改めとは。正しい神の裁きから救われるために悔い改めるとの因果応報の考えではありません。滅びの原因は罪であり、救いの根拠は悔い改めですとの考えは表裏です。神の支配を認めることです。
②いちじくの譬。悔い改めの必要の譬です。執り成す園丁は、罪人の身代わりに十字架で死んで復活し、昇天し神の前で執り成す主の姿です。
③備え。神に会う備えとは、素行を改めたり、罪を犯さないことより、真の神を人生の主と認め、今こそ主の十字架の恵みと憐れみと愛に満ちた神の前に、真実の悔い改めをする機会です(Ⅱコリント6:2)。

 

 

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