R5.3.12 礼拝式

「題」 「主は極みまで愛される」
聖書の箇所 「ヨハネの福音書13章1~15節」(新約P.211)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。
2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。
3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。
4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」
7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」
8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」
11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。
12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。
13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。
14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

1、イエス様は極みまで愛される
1節「さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」
「最後まで愛された」の「最後」は、「極限まで」「完全に」という意味もあります。ですからイエス様の地上での歩みの最後までという意味とともに、しもべの姿となられ、十字架にかかられてまで愛されるという、極みまでの完全な愛という意味でもあります。

2、イエス様とわたしの関係
8節「ペテロはイエスに言った。『決して私の足を洗わないでください。』イエスは答えられた。『わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。』」
イエス様が足を洗ってくださったのは、極みまでの愛によって私たちの罪をきよめてくださること象徴しています。イエス様と私たちとの関係は極みまで深められているので、決して離されることはありません。

3、お互いの関係
14~15 節「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。」
イエス様はご自分の愛と救いを受け入れた者たちに対して、あなたがたもそうしなさいと勧められます。私たちはイエス様に愛されている者であるという価値を認めて互いを敬い、イエス様に救われた喜びを分かち合うことによって強められ、成長していくのです。

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