H27.11.8主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「初めの愛に立つ」
聖書の箇所 「ヨハネ黙示録2:1~7」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)

2:1 エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。
『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。
2:2 わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。
2:3 あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。
2:6 しかし、こういうことはある、あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。
2:8 スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。

 2章には、小アジアの7つの教会の一つ、エペソにある教会に対するキリストのメッセージが出てきます。キリストは教会の主であり、地上の燭台(教会)のただ中に臨在されその間を歩いておられます。そのお方は、「わたしは、・・知っている」と言われます。

1、「賞賛」(2~3)と 「叱責」(4)
エペソ教会は信仰、忍耐において素晴らし教会でした。しかし、そのような教会に叱責のことばが続きます。エペソ教会は「初めの愛」を失っていました。教会の形、盛んな活動、影響力もある。しかし、神への愛、人への愛をいつの間にか失い、捨ててしまっていたのです。しかも、それに一向に気が付いていないという状態でした。
「初めの愛」とは、どのような愛でしょうか。
①神への愛
救われ洗礼を受けた時のういういしい愛。私たちは主への純情、ういういしい愛を忘れいつの間にか教会の主のようになっていないでしょうか。
②キリストによって現わされた神の愛
私たちが愛する、愛されるということの元になる一番初めの愛、神の愛です。神と主イエスの愛から離れることなく、私たちの信仰がいつもキリストにある神の愛に根差し、そこから私たちのわざが出てくることです。信仰生活を続ける中で、キリストの愛やキリストへの愛がぼやけ、ただ人間の交わり人間の組織の色合いが強くなっていないでしょうか。

2、警告・勧告(4-5)
「そこで、あなたがたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのわざを行いなさい」
エペソ教会は、初めの愛どこで捨てたのでしょうか。それは、主の賞賛に原因があります。(2~3、6) 教会は真偽を鋭く識別し欺く者を見ぬきました。その結果、互いに他者の欠点に敏感になり、互いの愛が消え去り、また罪人をも赦す神の豊かな愛が見失われていたのです。キリストは、「悔い改めなければ、あなたの燭台をその場所から、取り除ける」と警告されます。初めの愛に、常に、私たちは立ち返るべきです。
それは、教会の存続が問われるほどの問題なのです。(1コリント13章1~3)

 

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