*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」 「我は死にて葬られ黄泉に下ったキリストを信ず」
聖書の箇所 「ピリピ1:20~26、詩編16:10」 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
ピリピ人への手紙
1:20 そこで、わたしが切実な思いで待ち望むことは、わたしが、どんなことがあっても恥じることなく、かえって、いつものように今も、大胆に語ることによって、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。
1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。
1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
1:24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
1:25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。
1:26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
詩篇
16:10 あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。
十字架での出来事は、遺体の下げ渡しをピラトに願い出たヨセフが、「岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入り口には大きな石をころがしかけて帰った。」(マタイ27:59~60)という記述で閉じられます。イエスの遺体は墓に葬られました。
1、「死にて葬られ」
十字架の出来事は、暗闇、恐れ、混乱であり、それは死と葬りで幕を閉じ、残ったのは絶望と悲しみだけでした。女たちは主の葬られた墓を見つめています。墓を見つめる2人の女は、愛する方の死の悲しみ心が砕け、日常生活が何も手がつきません。人の人生は墓で終わります。そして、残された者たちは、死人を慕って墓に向かい、絶望し、あきらめ、墓を見つめているのだけなのです。
2、「陰府(よみ)にくだり」
<陰府>とは、死の世界、死者の行く世界です。原語で「ハデス」です。これは「ゲヘナ」とは異なり、ゲヘナはさばきの世界です。(マタイ5:22)
「死にて葬られ、陰府に下り」のことばは、初代教会の信仰に非常に大切な告白でした。キリストご自身が、人として本当に死を経験し、死の世界まで下られ、そこから甦ったということは、キリストは死と死の世界から、その内側から完全に死とその世界を滅ぼされたことです。キリストは、人として死に、さらに死の世界までも行かれ、そして、そこから死と死の世界を、内側から、完全に破って復活されたのです。ハレルヤ!
3、主は、ハデスをパラダイスの場所に変えられた
「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる。」(ルカ23:43)それは、主イエスが地上で奉仕しておられる間にイエスを信じて死んだ人すべてのためであり、また、今日、亡くなった信仰者のため、そうして下さいました。(ピリピ1:23、2コリント5:8)キリストは真に死を経験され、ハデスまで行かれ、そこを支配し、ハデスをパラダイスに変えられました。死に直面する時、キリストを信じているのと、そうでないのとでは、全く大きな違いがあります。イエスを救い主と知る者は、死を含むあらゆる人生問題を切り抜ける道を見出しているのです。
わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。 ピリピ1:21
プログラム | 時間 | 音声 |
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前奏 | 0:44 | |
賛美:天地(あめつち)こぞりて | 0:45 | |
交読9: 詩篇27篇 | 2:11 | |
主の祈り | 0:52 | |
使徒信条 | 1:09 | |
賛美18: おお御神をほめまつれ | 3:07 | |
聖書 ピリピ1:20~26、詩編16:10 | 1:24 | |
賛美101: イエスよ十字架に | 3:53 | |
説教: 我は死にて葬られ黄泉に下ったキリストを信ず |
10:00 10:00 10:00 10:00 9:39 |
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賛美105: 栄えの冠を | 2:53 | |
頌栄63: 父御子御霊の | 1:35 |