H24.8.26 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
「題」      「罪人を招く救い主」
聖書の箇所 「マタイ9:9~13
 (日本聖書協会:口語訳聖書より引用)
9:9 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 イエスは人々から罪人と呼ばれ社会から蔑視され隔てられていた人々を招き、その中からご自分の弟子を選ばれました。カペナウムの取税人であったマタイは「私にしたがってきなさい」と呼びかけられ、直ちに主に従いました。イエスは、なぜ人々から嫌われ蔑視されている取税人をあえて召されたのでしょうか。
罪人を招くキリスト
 イエスに従うマタイが、イエスのために食事の席を設け、その場に同僚である取税人や罪人を招いた時、パリサイ人たちは憤慨し主の弟子たちにつぶやきました。この時、イエスはこう言われたのです。

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人だけである」、「わたしが来たのは、義人を招<ためではなく、罪人を招くためである。」このことばには、皮肉(アイロ二-)が込められています。 自分を義とし、自分のことを悟らない人々に、イエスはしばしば皮肉を込めた言葉を語られました。自称義人が、この痛烈なことばに触れて自分の本当の姿に気付くためです。 この世に「義人と罪人」、「救いを必要とする人、しない人」がいるのでしょうか。パウロは「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)と、人間の罪の普遍を鋭く指摘します。 この世には、自分か罪人であると認識している人と、自分は義人、正しい人間であると認識する人、その認識の違いがあるだけで、皆、神の前に罪人なのです。ですがら、自分を義として他人をさばいている人の罪はさらに重いと言わざるを得ません。むしろ、謙って自分の罪を認め、悔い改めて神の前に立ち返ることが求められているのです。 自分の罪を認め悔い改め、イエスの十字架の救いに与ったクリスチャンも例外ではなく、罪人であることを卒業することはありません。いよいよ砕かれた魂で神の前に出、信仰による義に預かり謙虚に生きるものであるべきです。老使徒パウロの真摯な告白「わたしは、その罪人のかしらなのである」(1テモテ1:15)
「この罪人の私のために、キリストは死なれた」ことが、常に私の情熱、行動、生活の源泉となりますように。

わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである。。 マタイ9:13
プログラム 時間 音声
前奏 0:32
賛美:天地(あめつち)こぞりて 0:47
交読32:詩篇103 2:59
主の祈り

0:57

賛美27:来る朝毎に 3:16
聖書:マタイ9:9-13

1:23

賛美388:いともよきものを 4:02
説教:義人を招くイエス

9:47

9:49

10:05

9:58

10:00

賛美176:イエスは汝をよびたもう 3:31
頌栄:父御子御霊の 1:39

 

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