H24.3.25 主日礼拝

*聖書のお話し(バイブル・メッセージ)
(・聖書をもっておられる方は、今日の聖書の箇所を開いて 読んでください。)
「題」        「十字架による救い
「聖書の箇所」  マタイ 27:45~56

 総督ピラトは群衆と大祭司の言葉に恐れ、罪のない方を罪に定めてしまいました。人を恐れて罠に陥り、将来を失い、自らを永遠の滅びに定めたのです。一方、主イエスは不当な裁きを黙って受け入れ、自ら十字架の道を歩み十字架につけられました。
 マタイの十字架の記録では、十字架の主の叫びをあえて原語のままで記し、緊迫した生の声を伝えています。十字架上の七つの多様な御言葉の中から、マタイはただ一つの言葉だけを選びました。
 そこに、イエスの十字架の核心があるからです。そして、それは、最も激烈なイエスの十字架上の叫びとなりました。

イエスの十字架の核心である第四言は、何を語っているのでしょう。それは、イエスが十字架上で体験された霊的暗黒の深さです(45~46)

 主は、朝の9時ごろに十字架につけられました。昼の12時に至ってから、地上の全面が暗くなって三時に及びました。これは、日蝕のような自然現象とは考えにくく、神の直接介入で生じた暗闇でした。神の御怒りとさばきを示すものでした。イエスの叫びは、十字架上で体験しておられた霊的暗黒を注ぎ出したものです。

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ・・!」 これは、ヘブル語とアラム語が混ざったことばで、実感として、確かに父なる神から見捨てられた暗黒を経験しておられたのです。
神は、最愛の御子をこの瞬間、切り捨てられました。ここでは、父なる神はもはや慈父ではなく、容赦のない怒りとのろいを注ぐ審判者です。
 ここには、また、人間が戦々恐々としておびえる死というものの正体があります。罪ある者の裸の恥が丸出しにされ、容赦のない神の義の裁きを受けるということは、どれほど恐ろしいものでしょうか。

 決して裁かれることのないお方が、神の罰と怒りを受けねばならないとき、主が十字架で味わわれた霊的暗黒の恐怖はどれほどのものだったことでしょう。
 私たちは、これ以上ない苦難に満ちたイエスの御顔、イエスの口から絞りだすようにほとばしり出た絶叫、「わが神、わが神、どうして、お見捨てになりましたか!」 の叫びを通し、わたしたちのために、贖いを成し遂げようとされているイエスの内面の闘い、測り知ることのできない御苦しみを、深く瞑想しなければなりません。

 「神は、私たちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。」 (2コリント5:20)

礼拝式: 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」 マタイ27:46
プログラム 時間 音声
前奏 0:36
賛美:天地こぞりて 0:50
交読:詩篇33 1:17
主の祈り 0:49
賛美:主の真実はくしきかな 3:35
聖書:マタイ 27:45-56 2:59
賛美:カルバリ山の十字架 4:12
説教:十字架による救い 7:14
賛美:友よ読みしや 4:31
頌栄:父御子御霊の 1:25

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