R8.2.8 礼拝式

題: 「一粒の麦」
聖書の箇所 「 ヨハネの福音書12章20~28節」(新約P.208)
※聖書:新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会
20 さて、祭りで礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた。
21 この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。
22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行って、イエスに話した。
23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
27 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」

1,一粒の麦
23~24節「すると、イエスは彼らに答えられた。『人の子が栄光を受ける時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。』」
イエス様はご自分が十字架にかかられることを「栄光を受ける」と語られます。イエス様は一粒の麦のように、特別な存在としてではなく、私たちと同じ罪人同様の存在となられて、十字架にかかられました。ここに私たちのいのちがあります。

2,自分のいのちを憎む人
25節「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。」
「憎む」と訳された言葉は、他のものに比べて軽視するという意味があります。自分のいのちを自分で大事にし、自分の力で高めようとする人はいのちを失い、自分のいのちよりもイエス様を第一とし、イエス様により頼む者は、永遠のいのちに至ります。

3,イエス様に仕える
26節「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」
イエス様は罪の救いを成就されるため、最も低いところに降られ、私たちに仕えてくださいました。私たちも自分のいのちを捨てて、低きところに仕えるなら、一粒の麦として用いられ、豊かな実を結ぶことができるのです。

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